第15章
──兄貴に会った。
「……そっか」
寄り添うように静かに返した。返せた……が。
(えええええええっ!? いつの間にぃぃっ!? 私が使い物にならなくなってた3日間のどこかでってことだよね多分!?)
内心はそれどころではなかった。
カタカタと震えている気がする。
(え。待ってこれ希羽くんの名前出していいのかな!? じゃないと話しようがないよね? でもこのまま黙って話を聞いてほしくて呼んだ可能性も)
「おいっ!」
「ハッ!!」
我に返って羽衣の方を見ると、間にあったお盆が倒れたグラスの麦茶でプールになっていた。個包装のお菓子が浮いている。
「ああああごめんっ!!」
「いや、いいけどさ。なんで俺より動揺してんだろおかしいだろ!!」
「そんなこと言われてもー!! い、いいの? 名前出していいの?」
「いいわ!! 俺から話に出してんだから大丈夫だって察しろよ!!」
「だってなんかめっさ深刻そうにしてるからさらにストレスをかけるようなことするのはってなるじゃん!!」
「別に深刻にしてねぇし!!」
「してたよ!!」
「してねぇ!!」
羽衣はそう言い切ってから、気まずそうに目を逸らす。
「……こっちから話題に出させねぇようにしてたから言い出しにくかっただけだわ」
「……え。希羽くんの話を出すのが恥ずかしかっただけってこと!? 照れてたの!?」
「んなこと微塵も言ってねぇが!?? お前も兄貴もなんなんだよっ!! 気を遣ってんだかねぇんだかわかんねぇわ!!」
羽衣は「……ったく」と胡座をかくと不機嫌そうに頬杖をついた。
「そ、それで……その、いつ会ったの?」
「4日前の夜。もう少しで日付け変わるとこだったか? 買い物に出たら道にいた」
真理が希羽と縁側で話した日だ。
時刻からしてあの会話のあと、希羽は外に出たらしい。
「遠くで目が合った瞬間走り出してよ。追っかけたらなんか周り血塗れだし、あいつが走ってくあとに血が点々と続くしでなおさら追いかけたわ」
「え!? 誰かと戦ってたってこと!?」
精域から誰か襲ってきたのだろうか。
なんて羨ましい。
(どうして私のところにきてくれないんだろう!! 坂井くんも星錬で希羽くんと戦ってるし……! 羨ましい!!)
「お前今ふざけたこと考えてんな??」
「いいいいえ、そそそそんなことはないですよ??」
「お前仮にもあいつと仲良くやってんだろ? 怪我してそうって話聞いて心配とかしねぇわけ?」
「いやぁだって希羽くんなら余裕で自己……」
自己回復できるし。
そう言いかけて固まった。
羽衣に司術の話をしないために固まったのではない。
ひとつの懸念がよぎったのである。
(……あれ。羽衣がいると、自己回復ってできないんじゃない? 司力使うんだし)
羽衣の無欲の力は広範囲に影響するのは生依との戦いでわかっている。
それに最も精霊に近い黎瀬と言われる生依でさえ、真理の拳による頬の打撲を治癒するのに時間がかかっていたくらいだ。
血が道しるべになるレベルの出血をしていた希羽。
(もしかして、自己回復するために羽衣から離れようとしたのかも……)
などと言えるわけもなく。
「じこ?」
「じこ……事故ってるし!!」
「余裕で事故ってるってなんだよ!? いつも心配する気にもならねぇレベルで流血沙汰起こしてるってことか?! お前じゃあるまいし!!」
「ま、まぁまぁ!! それで、希羽くんには追いつけたの?」
「無理矢理進めようとすんな! つけたけどさ!! あいつもう少しってところで急にこっちに向かってきてよ。あろうことか俺の脚の間スライディングして潜り抜けやがって……」
「あ、不意打ちだぁ! じゃあ逃げられたの?」
「ギリギリでパーカーのフード引っ掴んでやった」
「おしいっ!!」
「どっちの味方してんだよ……それで、ムカつくから嫌がらせにお姫様抱っこで俺ん家まで運んでやったんだけど」
「それむしろご褒美じゃない?」
「あいつにも言われた」
「だよね」
たやすく想像できて、思わず笑いそうになったところで。
「手当てしてて、8年前の話になった」
空気が変わった。
「……あの日のこと?」
先日、羽衣本人から話してもらった希羽との別れの日。
希羽が老人を庇い、羽衣が彼を見限ったあの日。
羽衣はうなずき。
「今でもあいつを取るのかって訊いた」
自分でもなに言ってるんだという気持ちだったのか、その顔には嘲笑を浮かべている。
「兄貴は『今も、僕は君を選べない』って言った」
それは当然だ。
希羽は祈念呪の儀と復讐を遂げようとしているところなのだから、彼としては羽衣を選びたくても選べないのだろう。
真理が返答に頭を使おうとしたところで、続けて冷静な声が響く。
「……今はどうか知らねえけど、俺の知ってる兄貴は『やりたいことしかやりたくない』がモットーの男だ。こういう選択をされた時は絶対できるできないじゃなくて、やりたいかやりたくないかで答えるんだよ。だから、いつもならあいつの答えは『選ばない』だ。……それが、ずっと引っかかってる」
羽衣は片手で顔を覆った。
「選びたかったんだとしたら。とか、選びたくても選べないんだとしたら。とか、考えちまう。とっくに捨てたはずなのに、意味わかんねぇよな」
「…………」
──好機だ。
と、真理は思った。
羽衣には悪いが、それが一番最初に思い至ったのだ。
彼女には、希羽を止める力になってもらわなければ。
なら、今ここで言うべきなのは精域云々ではない。
確実に受け止めてもらえるものだ。
真理はまっすぐに羽衣を見た。
「……希羽くんは、羽衣のこと、大事にしてるよ。私にはそう見える」
羽衣は目を瞬かせ。
「……そーかよ」
と、再び頬杖をついた。
「それに、さ。……羽衣は、どうして追いかけたの?」
「……は?」
頬をついたまま目を見開く羽衣に伝える。
「普通、捨てたものを、追いかけたりはしないよね?」
「…………」
「え、えーーっと、つ、つまりはですねぇ……」
「わかった」
「えっ」
「……ちょっと、ひとりで考えるわ」
「……うん」
あとは羽衣次第だろう。無理矢理方向を変えようとするのはよくないし、きっと上手くいかない。
真理は立ち上がり、玄関へと向かう。
「なにかあったら連絡してね! あっ、もうすぐ羽衣の誕生日だし、多分こっちが連絡しちゃうかもしれないけど」
「おう」
羽衣がしっかりとこちらを向いて手を振ってきたことに安心しながら、真理は出て行った。
帰宅してリビングに入ると、希羽が弟とともにくつろいでいた。
彼はソファーに腰掛け、またもや星錬から持ってきた司猫の写真集を眺めている。弟はそんな彼にコアラのように引っ付いていた。
真理の入ってくる気配に気づいてこちらを向く希羽。
その目は声をかけていいものかと窺っていたので。
「……た、ただいまー」
こちらから、もう大丈夫だと知らせるように口にした。
「……おかえり」
「かぇりー!」
柔らかく微笑む希羽と、手を振ってくる弟。
「な、なんか……ごめんね」
「いや、気にしなくていい」
希羽は首を横に振るだけで、訊ねてくるつもりはないようだ。
そこに感謝の気持ちを感じていると、2階から足音がした。それは廊下で止む。
見てみると、リビングのドアを少し開けて、妹が真理に手招きをしていた。
不思議に思いつつも廊下へ行くと、妹は少し開いたドアからリビングへ顔を出し。
「ちょっとお姉ちゃんと買い物に行ってくるねー!」
とだけ言ってドアを閉めた。
「え? どういうこと実歌?」
こちらは帰ってきたばかりなのだが。
妹は声を潜めて。
「お姉ちゃん、羽衣姉と希羽兄の誕生日プレゼント買いに行こう!」
「あっ、なるほど」
財布も返してもらったし、ちょうどいいかもしれない。
真理は促されるまま、再び家を出ることとなった。
ショッピングモール内の雑貨屋で、プレゼントを選ぶ。
妹はあらかじめなににするか案を固めていたようで、既に候補をいくつか籠に入れていた。
「それにしても、羽衣姉と希羽兄が同じ誕生日ってすごいよねぇ」
「そ、そうだね」
妹は希羽と羽衣が双子であることを知らないので、そう思うのは当然だ。
「そういえば、夜尋くん達もみんな誕生日が同じなんだよ。こういうのって意外と珍しくないのかな?」
「え?」
「でも、三代揃って同じ誕生日ってすごいよねぇ」
黙り込む真理に気づきもせず、妹は籠に入れていた候補から買う物を選ぼうとしている。
同じ誕生日。
偶然だと言われればそれまでだが、不自然だ。
(不自然……自然じゃない……なら)
人工的に作るのであれば、誕生日が同じになってもおかしくないのではないだろうか。
『おう、あんがとさん。……わー、俺みてぇな駄作の分まで買ってくれたの? やっさしーねぇ』
あの時の叶一の発言。
(……駄作……日記にあった人工精霊初の失敗作? つまり夜尋くん達は……星錬のあの場所で生まれた人工精霊……?)
人工といえど精霊であるなら、精霊とその実子にしか使えないという加護が使えるのも理解できる。
(じゃあ叶夜さんは……奇跡の産物っていう……)
そこまで考えて。
『なんで生きてんの?』
『わりぃわりぃ! 二度と見たくねぇ奴と顔がそっくりだったもんで!! ごめんな?』
頭の中に、次いで叶一の発言が出てきた。
「……ねぇ実歌」
「んー?」
「その、こないだ夜尋くんのお爺ちゃん……が言ってた人って検討つく?」
籠に向いていた妹の顔が上がる。
「あー。叶一さんが二度と見たくない奴に似てるとか言ってたね」
「そうそう」
「うーん……しかもお姉ちゃんに似てるんでしょー? ……あ」
妹が手を鳴らす。
「聞いたかも! 前お姉ちゃんの話した時に。……たしか、叶一さんが子どもの頃一緒に暮らしてたおじさんで、司術研究が趣味で、研究した司術を試すべくいろんな人に試し合いを挑んでたって!!」
「待ってその似てるって中身だよね!? どう見てもこないだのは私の外見からの反応じゃん!」
「う……。が、外見も似てたとか?」
「おじさんと!!?」
「う、いや雰囲気が似てたかもしれないし! 叶一さんみたく見た目は若かったかもしれないじゃん!!」
「そう言われると……いや、でも……」
「なにその煮え切らない反応……お姉ちゃんこそ思い当たる節でもあるの?」
「えっ」
妹に問われて硬直する。
そうだ。生依の話もあって、真理は思っている。
母なのではないか、と。
(あーー今は考えないって決めてたのにっっ!!)
今優先すべきなのは真相の解明ではなく、希羽と羽衣の仲を取り持つこと。
そう決めたではないか。
「ごめん。よく考えたらそんなに気にするようなことじゃなかったや」
「そうだよお姉ちゃん。今は羽衣姉と希羽兄のプレゼント選びでしょ? お姉ちゃん候補すら出てないじゃん」
「こういうの選ぶの、苦手なんだよねぇ……」
真理は妹に急かされながらも、プレゼントを選ぶのだった。
読書は好きだ。
ただ、強制的な読書は嫌いだ。
だから、読書感想文のための読書を後回しにしていたのは至極当然のことだったのだ。
8月ももう5日。
精域巡りも止められ、希羽については羽衣の動きを待っている。拓馬からの連絡もない。
鍛錬を済ませてしまえば、あとは暇。そんな状況になってやっと決意した。
(夏休みの宿題、しなきゃ……)
問題集はいざとなれば答えを見て適当に埋めてしまえばいいが、読書感想文はそうはいかない。
同じような理由で日誌の天気だけは書いている。あとで調べるのが面倒だからだ。
休みに入る前に買った指定された本を手に取り、開く。
が。目は滑るばかりで文字を認識せず、ふと上げた視界に入った漫画に手を伸ばしそうになる。
ハッとして再び読もうとして、今度はスマホに手が伸びそうになった。
そんなことを10回やったところで。
(だめだ、自分だけだとどうしても脱線しちゃう……! っていうか自分の部屋じゃ誘惑しかない!! 誰かいるところでやろう! 誘惑のない部屋に行こう!!)
そう思い立ち、真理は階下へと降りた。廊下を通りリビングへ入る。
そこでは希羽がソファーに腰掛け、星錬から持ってきた写真集を見ていた。
ここ数日、よく見る光景だ。
彼がこちらに顔をやる。
「真理。僕達以外は出かけているぞ。みんな夕方には戻るそうだ」
「そうなんだ。ってか希羽くん、またその写真集見てるの?」
「ああ」
「なんというか……飽きないね」
「せっかくなら全て頭に叩き込んでおこうと思ってな」
「いつでも見れるのにっっ!?」
「いつでも思い返せるようにだ」
「ああ、そう……」
内容は内容だが、真面目にやっている人が近くにいるなら集中できそうだ。
真理はソファーから少し離れたダイニングチェアに腰掛け、持ってきた課題の本を開き、読み進める。
冷房の風の音だけが響くリビングで、しばらくそれぞれのことをしていると。
希羽が「ああ……」と呟くのを聞き、つい耳を傾ける。
「……癒やされたいな……」
「ちょっと希羽くん!? 現在進行形で癒やされてるんじゃないのっ!? 作業になっちゃったら本末転倒じゃない?!」
思わず叫んでしまう。
希羽は我に返った様子で目を丸くした。自分でも驚いたのか、己の口元に手をやっている。
「た……たしかに、そう、だな」
「そうだよ!? 疲れてるなら寝たほうがいいんじゃないかな?」
「君の言う通りだ……少し寝るがね」
希羽は照れ隠しのようにヘアバンドに指を引っ掛け、写真集を片手に部屋へと戻っていった。
(希羽くんってば真面目なんだから……さて、私も残り半分読まないと!!)
そう意気込んで、真理は読書を再開した。
しかし、希羽がその場にいるという効果は思っていた以上に大きかったようで。彼が退室して以降、読書はほとんど進むことはなく。
出かけていた家族がリビングにくるまで、頭に入ってこないと数ページを行き来するのみで終わったのである。
翌日。
真理はなんとか読書を終え、忘れないうちにと皆のいるリビングで感想文を書いていた。
母と妹はダイニングテーブルで雑誌を眺めており、父は弟を膝に乗せてテレビを見ている。
相変わらず希羽はソファーであの写真集だ。
(珍しい。悠くんが希羽くんに構ってしてない)
いつも希羽がああしていると膝に登っていたのに。
さすがに1歳児でもあの写真集には飽きてしまったのだろうか。なんて思っていたところで、真理のスマホにメッセージがきた。
『明日の夜、会いに行く』
誰にだなんて明白だった。
(さすが羽衣、早い。1週間はかかるかと思ってた……)
連絡が早くて驚いた。
8年仲違いしていたのだから、もっと悩むものかと思っていたのだ。
『大丈夫?』
『明日なら理由つけられんだろ』
『ああ、なるほど。了解』
どうやら誕生日という口実が欲しかったようだ。こちらとしても早いほうが助かるので了承した。
(上手くいきますように……!)
ソファーに腰掛ける希羽の姿を見て、真理は祈った。
夏休みの一日なんて一瞬のことで。
鍛錬やら宿題やらをこなしていれば、あっという間に夕方になっていた。
羽衣が来ることは希羽には言っていない。驚かせるような形になるが、下手に伝えて姿を消されてしまっても困るからだ。
そろそろ夕食の支度を始めようかと話す母を見て、家族にも報告していないことを思い出した。
「あ、お母さん! 夜ちょっと羽衣が会いに来るんだ。やっと希羽くんと仲直りする気になったみたいで……」
家族全員の顔が、不思議そうに傾けられた。
母が心配そうに言った。
「なに言ってるの真理。希羽くんなら昨日帰ったでしょう?」
「…………え?」
唐突な情報に理解が追いつかず、呆然と溢す。
「そーだよお姉ちゃん。一緒に来てた家族に急な仕事が入っちゃったとか言ってたじゃん。お姉ちゃんもいた……よね?」
「? いたはずだけどねぇ。悠くんも寂しがってたもんね」
「あーう」
妹、父、弟からの追撃。
しかし、真理にそんな記憶はない。
昨日の夜も、なんならついさっきだって、いつも通り彼の姿はあった。あったはずだ。
だが。
この状況にピッタリとはまる答えが、ひとつだけある。
(……希羽くんの、銭幻……)
どうしてわざわざそんなことを。
ふと、今日の日付を思い出す。
8月7日。
(羽衣と希羽くんの、誕生日……)
──事件があったのは、4歳になる誕生日だった。
──そんな生活が7年あって……ちょうど8年目を迎えようとしていた日。
──忌々しいことにあれは俺達の誕生日の出来事だったから、日付けはしっかり覚えてた。
羽衣の話してくれた過去。
そうだ。
どちらも同じ日付だったのは偶然などではなくて……。
8月7日。
それが儀式の日なのだ。
自分の温度が、急激に奪われた気がした。
(いや、でも、それじゃあ私が希羽くんと会った日のは……?)
ここで、消えた星錬を思い出す。時間がないと儀式の予定を早めた可能性はある。
今日が儀式の日なら、希羽は星名村に向かったのだろう。
(どうやって……)
真理の持っている精霊石と同じような物を持っていたのだろうか。それともそんな力を持った者と精霊契約でもしているのか。
そもそもそんな手段を持っているならなぜ今まで使わなかったのか。
いや。
(そんなことはどうでもいい!!)
今真理ができるのは、精霊石で星名村の精域へ行けるまで試し続けることだけだ。
真理はリビングを飛び出した。
自室へと駆け込み、鍵をかける。
急く思いのまま、精霊石を発動させようとした時。
スマホが鳴った。拓馬からだ。
縋るように電話に出ると、要件から始まった。
『調べがついた。俺らと同じ町に住んでたわ』
「え? なんで!?」
あの老人がこの町に別宅でも持っていたのだろうか。
『いやなんでって言われてもな!? ともかく、白部は先輩を家に引きつけておいてくれ。俺はこれから先輩の妹さん捜して説得するから!』
「え? 先輩の妹さんって……羽衣のことだよね? 羽衣の家なら私の家から歩いて行けるところにあるけど。そ、それより希羽くんがいなくなっちゃってて……!!」
『…………』
声はしないのに、電話口から重苦しいなにかが流れ込んでくるように感じる。
そこで、真理もお互いの認識違いを悟った。
恐る恐る拓馬に呼びかけようとしたタイミングで、大きなため息。そして『……負けたかもしんねぇ』という呟きが聞こえた。
『白部は精霊石試してみてくれ。あと妹さん家の住所送って』
「……わかった」
辛うじて形になったような声で返事をすると、拓馬に羽衣の住所を送る。
もう遅いかもしれない。
でも、やるしかない。
片っ端から精域を巡る。
そう思い、ヘアピンの精霊石を使おうと試みる。が。
精霊石は、なんの反応も示さない。
(…………なんで)
精域が消滅したわけではないのはわかる。彼は今星名村にいるのだから。
なら、精霊石自体の不具合。
そこで、さらに不安が過った。
(お母さんに不信感があるから……? でも……)
精霊石から引き出せる性能は信頼に直結する。それは作った者の当時の信頼であり、真理が今現在母親に不信感を抱いたとしても関係ないはずだ。
しかし、精霊石が使えないのは事実。
どうにかして早く星名村に向かわなければならないというのに。
焦る気持ちからまともな思考ができずさらに焦るという悪循環。
その時、階下から声がした。
「真理! あなたに殴られたって人がお話したいって! 外で待ってるって言うから出てくれない?」
母のものだ。ついで妹の「いつかやると思ってたけどさぁ!! 早く行ってきなよ!!」という大きな独り言がする。
こんな時に。
自分の行いに苛立ちを噛み締めながらも外へ出る。
「こーんばんはぁー!」
青竹色の曲がりくねった髪。
黄緑色の瞳。
右耳に光るエメラルドグリーン。
つい先日兄だと判明したその人は、見慣れた態度で片手を振ってきた。
「……なんで」
「なんでって、僕嘘はついてないよ? 君にほっぺ殴られたもん。痛かったなぁ〜!」
生依はわざとらしく頬に手を当てる。
「今あなたと話す暇は」
「ないよねぇ。星名村に行きたいけど、行けないんだもんねぇ?」
どうしてそれをと訊ねるより早く、彼は答えた。
「君の精霊石は特殊でさぁ、現在の信頼が性能に直結するんだよ。お母さんに不信感でも抱いちゃったぁ? まぁそうだよね。そうなってほしくて話したんだもん僕」
それが狙いだったのなら、生依の目的は達成されている。
なおさらなぜ今ここに用があるのか謎だ。
さぞ怪訝な顔をしていたのだろう。生依は目を眇めた。
「なにその顔……ま。そっか。じゃあ何の用って話だもんね? 一言で言うと、今から僕が星名村に繋いであげる」
「は?」
「なに? 行きたくないの?」
「いや行きたいけどっっ……なん、で?」
たしかに、以前戦った時は生依に希羽を送るつもりはない様子だった。
だが、今この状況を知っているにも関わらず彼は希羽を助けに行っていない。
送られたほうが好都合ということだ。
矛盾した行いをしている自覚があるのか、生依はやりにくそうにそっぽを向いて。
「……別に。写真代だよ」
「写真代?」
「あーもううるさいなぁ! 急いでるんでしょ? 早く得物持っておいでよ! 僕の気が変わらないうちにさぁ! そこの裏庭で待ってるから!」
「あ、はいっっ!!」
そうだ。考えている場合じゃない。急いで支度をして裏庭へ向かうと、生依が倉庫の中で空間を開いていた。
向こう側は林で、人が簡単に整備したような細い道が見える。あまり使われていない、知る人ぞ知るといった雰囲気があった。
「まっすぐ行けばいいから。こうなったらもう出涸らしジジイを潰すしかないだろうけど、君なら勝てるんじゃない?」
「……ありがとう」
一応お礼を言って、真理は開かれた空間へと飛び込む。
希羽が精霊石にかけてくれていた司術は発動するようで、真理の姿は瞬時に変わった。
「……ま、君の思う『勝ち』かは知らないけどね」
背中でそんな声が聞こえたが、訊ねようと振り返った時には、空間は閉じられていた。
言われたままに林道をまっすぐ駆ける。
間に合わないのではないか。騙されているのではないか。そんな不安を走るスピードを速めることで掻き消す。
考えないようにしすぎて、自分の息遣いや草木の匂いをただ感じるだけとなった頃。夜の暗い林から解き放たれ、開けた場所に出た。
石でできた広場だ。
月明かりの下。石畳の中心で、白髪を靡かせた者がひとり。
その足元をよく見れば、石畳の隙間が、陣を描いている。秋晴村で見た陣と同じものだ。
そして、希羽の姿はない。
終わってしまったのかと思った瞬間、老人が振り返る。
「儀式はこれからだ」
その言葉に揺らいだ心が落ち着きを取り戻す。
「私を殺したいのならば、やってみるがいい」
老人は祈念刀を抜き、構える。
奴は真理が己を殺そうと思っていると捉えているらしい。
生贄である希羽を助け、仇討ちを目論んでいるように見えているのだろうか。
こちらにそのつもりはないが。
「祈念呪の陣内で略式は発動しない。祈念刀がある場合、陣が血を得たとしても祈念刀の所持者の意思が優先される」
真面目なのか律儀なのか老人は言った。
意思が優先などと言っているが、老人に儀式を止める気などないだろう。
老人が立つのは石畳の……陣の中心。
目標は相手の無力化だが、まずは安全確保だ。
お互いの血を落とすことなく、奴を陣の外へと追いやらなければ。
真理は薙刀を構えた。
駆け出し、切りかかる。
振り下ろした薙刀を老人は軽く受け止め、流す。
そこで身体を捻り、今度は柄で突く。
老人は後ろへ飛び退いた。
そんな攻防がしばらく続き、老人の位置は陣の端になってくる。
(このまま、陣の外にやる!)
さらなる後退を促すように。
押し込むように。
薙刀を突き出す。
が。
老人はそれに怯む素振りはなく、むしろそれを受けようとそのまま突進してきた。
刃のない薙刀であれど刺さるのではないかという勢いで。
思わず得物を逸らす。その先端は老人の脇腹を掠めるに終わった。
その動揺を見逃すまいと、老人は掠めた薙刀に沿って滑るように距離を縮めてくる。
お返しとばかりに刀が顔面に突き出された。
躱しきれず切先がこめかみに掠め、ヘアピンが飛んでいく。
結い上がっていた髪が落ちる感触がした。銭幻が解けたのだ。
追撃を逃れようと老人の背後に回り込んだところでそれが振り下ろされ、ギリギリ柄で受け止める。
立ち位置が逆転してしまったことに内心で舌打ちした。
「殺す気はないようだな」
心底意外そうに問われる。
「私には、あなたにそこまでする価値を感じないので」
力が拮抗するなか、真理も訊ねたかったことを口にする。
「あなたが私の家族を殺した理由は理解しました……でも……」
祈念呪の儀……精域の存続。
大義ではある。だが。
「どうして、そこまでできるんですか?」
いくら世界のためとはいえ、自分ならできる気がしなかった。
老人は一瞬、嘲笑して。
「……後に引けない。それだけだ。妹を殺したあの日からずっと」
だが、と区切る。
「そんな私にも譲れないものができた。お前からしてみれば随分と身勝手で傲慢だろうが……そう思わせたのはお前だ。気づかせたのはお前だ」
低い声音が暗い熱を帯びる。
刀の威力が増していく。
「あの日。予定を早めて儀式を行おうとしたあの時。お前が割って入ってきて思ったんだ」
拮抗が揺らぐのを感じて瞬時に下がる。
老人は真理に下がられたことでそのまま刀を下ろしきった形になった。
今だ。
奴が次の動きに移るよりも速く攻撃に──。
「息子を殺すくらいなら、お前を殺すと!!」
その目が。声が。
ひどく水気を帯びていたものだから。
──動作が、わずかに鈍った。
大きく掬い上げるように振り上げられた刀に薙刀が弾き飛ばされ、その勢いを保ったまま、上がった刀が振り下ろされる。
その動きがゆっくりと見える錯覚に陥りながらも、赤い袈裟懸けができあがるのを覚悟した時。
なにかが滑り込んできた。
紫い紫の髪に、いつもの黄緑は見当たらない。
紫色のケープ。そうだ。黎装の時彼はヘアバンドを外すのだ。
どこか遠くで思考する自分。
衝撃に見開かれる瞳。
覚悟していたそれは、希羽の左肩から斜めにざっくりとできあがった。
「銭現」
同時に、彼の口から冷静に紡がれる詞。
相対する老人の身体に、そっくりそのまま袈裟斬りが成された。
老人は一瞬よろめいたものの、刀を杖のように地に突き立てることで留まった。
希羽は銭幻を用いているのかふらつく様子はない。
そして、いつか自傷を治癒した時のように、傷が塞がる気配はない。
……いや、塞ぐ気配がないのだ。
「希、羽く……」
震える手を伸ばそうとした途端、希羽によって肩を押された。
さほど力は入っていなかったのに、真理は後ろへよろめき座り込む。
視線が交わる。その無機質な瞳からはなにも読み取れない。
「希羽」
老人が呼びかける。その声に、希羽は勢いよく向き直った。
「約束は果たされた……受け取れ」
「…………」
希羽の手が祈念刀の柄に触れる。
老人は希羽がそれをしっかりと手に取るのを確認してから。
「────」
ゆっくりと手を離した。
支えを失い、崩れる身体。
うつ伏せに横たわったまま、老人は動かなくなった。
希羽は俯き。
「……父さん」
呟いた声は、震えていた。
(父、さん……?)
先刻の老人の叫びが脳裏に蘇る。
だが、今はどういうことだとか、そんなことを考えている場合ではない。
儀式を止めなければ。
「希羽くんっ!!」
駆け出そうと足に力を入れた時。
上から衝撃が訪れた。
地面に引き寄せられるこの感覚には覚えがある。
生依かと目を動かすが、答えはすぐ近くにあった。
こちらを向いた希羽がケープについた黄緑色の石に片手を翳しているのだ。
留め具の装飾などではなかった。
(生依の、精霊石)
どこまでもあいつに振り回されている。食いしばった歯がギリリと音を立てた。
今、真理の位置は陣の外側。希羽はすぐ先に立ってはいるが、陣の内側だ。
陣は老人が彼を切り裂いた時に血を得ている。発動しないのは、祈念刀を持った希羽の意志が優先されているからだ。
希羽が発動の意を示したり、祈念刀を手放したら終わる。
そもそも彼がこのまま受けた傷で……という可能性も大いにある。
八方塞がり。
どうすればいいのだろう。
のしかかる力に抵抗しながらも、動かせる限界まで希羽の方へ目線を持ち上げる。
彼は無表情でケープの精霊石を発動していた。袈裟斬りの傷は塞がっていない……が。
僅か、しかし確実に治癒されていっている。
希羽も不思議に思ったのだろう。
「ああ……加護か。治癒力の増強……本当にお人好しだな。あの人は」
くすりと笑った。そして真理の前でしゃがみこむ。
「安心してくれ真理。君がなにをしようが、僕はこうするつもりだったんだ。最初からな。……それに」
目を伏せる。
「僕は君に助けてもらえるような奴じゃない」
そして真っ直ぐに真理を見る。
「なにせ、重命賢生を時田の家に行かせたのは僕なんだからな」
「……どういう、こと……?」
真理は瞠目した。
彼は静かに立ち上がり、話し出す。
「賢生は15年前に僕の父、星名望に殺されるつもりだったんだ。千年以上に及ぶ儀式の執行という使命に疲れたんだろうな」
まぁそれは僕の憶測でしかないんだが。と希羽は嘲笑した。
その笑みは彼自身に向けられているようだった。
「父さんは代々続く星名の祈念呪としては異質で、反抗的だったそうだ。だからもちろん儀式の生贄になるつもりはなかった。君が羽衣から聞いて教えてくれただろう? おそらくその話の通り、人間として生きるつもりでいたんだ」
希羽は視線を下げる。
「それを好機と、賢生はとある話を持ちかけた。──祈念呪の儀で自分を殺してくれないか。とね」
祈念呪の儀で死ねば跡形も残らない。
希羽から聞いたことを、真理は思い出した。
「これは父さんにも利点があった。賢生を殺したあと、そのまま自身は儀式で送られたことにしてこちらへ移住すれば、星名の執行者に追われることもない平和な暮らしが手に入るんだからな。星名の執行者はずっと賢生だ。星名で本来の儀式を知る者は賢生と祈念呪だけだから、彼が死ねば新たな執行者が現れることはない。だから父さんも引き受けた」
希羽は今もとめどなく血が流れる傷口に思い切り爪を立てた。
「だが待ちに待った儀式の日。とんだ邪魔者が入ったわけだ!」
その目は濁り、彼の口角が歪に上がる。
「誰にも気づかれないように配慮した真夜中。すぐにすむようにと略式で。それを行おうとした時だ。そいつはあろうことかやったきた。なぜだかわかるか? ただ父親にヘアバンドをつけた自分を見てもらいにさ! 馬鹿だろう? 愚かだよなぁ? それが自分宛のものですらなかったのにさぁ!!」
嘲るように、蔑むように彼は笑った。
濁った双眸が滲む。
「無知なそいつは思った。父さんが村長をいじめてるってね。刀がおもちゃとでも思ってたのかねぇ? ……そいつが割って入った時には、父さんの祈念刀は軌道修正なんてできなかった」
瞼の淵で留まる雫が、月光に照らされる。
「父さんは祈念刀から手を離した。賢生は僕を抱いて後退った。母さんは父さんに手を伸ばした」
──略式は送れる量と範囲が小さい分発動が速い。阻止するのは極めて困難。
なにが起きたか、真理にもわかった。
「勢いは削がれても、切れ味のいいそれは賢生を掠めて血を得た。即座に展開された陣から間一髪で賢生と僕は逃れた。祈念刀を手放した父さんと、それに手を伸ばした母さんは送られた」
希羽は傷に突き立てていた手で目元を拭う。頬を横切るように赤が滑った。
「願っていた終わりが叶わなかった賢生は、執行者の使命を続けることになった。彼は精霊の命令とあれば星名以外でも儀式を行う執行者でな……」
這いつくばる真理の前に、膝をつく。
「あとは、君の記憶通りだ」
「…………!!」
言わなければ。
なにか言わなければ。
でもなにを? なにを言えばいい?
押し潰されながらも、必死に思考を巡らせる。
「……それはっ! 希羽くんのせいじゃない、よっ!!」
やっと出たのはどこかで聞いたような陳腐な言葉だった。
希羽は眉を下げて微笑むも、それは束の間のことですぐに表情を沈めた。
そしてゆっくりと立ち上がる。
血に汚れた両手を忌々しく握り込み、真理から少し外れた地面を睨め付けた。
「ずっと思っていた。僕が君を癒やしだなんて烏滸がましいことこのうえないと。君の家で談笑するのも抵抗があった。でも君にだけ素っ気なくしたら、君は自分を責めるだろう? 秋晴村で君に抱きついた時なんて、君が刺してくれないかと思っていた。むしろ僕が僕を刺してやりたかったくらいさ!!」
その声は段々と激情へ向けて駆け上がっていく。
握り込んだ拳からは鮮血が滴れる。
「僕は僕を殺したいんだっ!! 死にたい奴が生贄になることほど効率のいいものはないだろう!? 遺体も残らない。万が一発覚しても、加害者家族として非難される者はもういない。……それに……」
再び潤んだ瞳は、嬉々としていて。
「癒やしと一緒に逝けるなんて、本望じゃないか」
「…………!」
老人の言った『息子』。
希羽の呟いた『父さん』。
うっすらと想像していたものが、明確になっていく。
どうして気づかなかったのだろう。
羽衣は老人に『負けた』と言っていた。
祈念呪の儀もなにも知らない羽衣。
彼女がそう思うくらい。きっと。
『……だからといって、君まで恨む必要はないだろう。君にとって大切な人であるなら、想っていても構わないんじゃないか』
あれは。気遣いでもなんでもなく。
心からの。
希羽の瞳が地面から真理へと緩慢に移る。
「僕にとっては、父さんより父さんだったんだ。初めて最後まで絵本を読んでくれたあの日からずっと……。君になんと言われても、これが僕の本心だ。だから……」
そこで、自制するように首を振る。
──すまない。
口元がそう形作ると同時に、希羽が祈念刀を手放す。
陣から光が溢れ、柱となって天へと突き抜ける。
真理にかかる力が僅かに弱まった。
司術をかけている精霊石も儀式で送られつつあるのだろう。
陣へと這い寄る。
行ったところでなにになるとか。
もう間に合わないとか。
自分も終わるとか。
そんなことはどうでもよくて。
なにもしないでこの場にいるのが、どうしようもなく嫌だったのだ。
……いや、違う。
そんな複雑な理由じゃない。
こんなに長い言葉じゃない。
もっとシンプルで、安直な。
前にも一度抱いたような気がするそれは、なんだっただろうか。
限界まで伸ばした手が、なにかを掴んだ感覚を得たところで、意識が途絶える。
寸前。息を呑むような音が聞こえた気がした。
わかっていたんだ。
それが羽衣に宛てられたことは。
それでよかったんだ。
父さんがそう決めたのなら、それで。
でも、一度。一度だけでいいから。
その姿を見てほしかった。
『似合ってるな』って言ってほしかった。
──それだけだったのに。
黎瀬は人間よりも発達が早い。
おそらく僕も早いほうだったんだと思う。
しかし、羽衣は飛び抜けていた。2歳頃には両親とそれはもう流暢に喋っており、まだうまく話せない僕は指を咥えてそれを眺めていたものだ。
「羽衣はおしゃべりが上手だなぁ!」
父さんに他意はなかったのだと思う。だが、言葉が発せないだけで受け取り理解はできていた僕の耳にはそれが痛く感じてならなかった。
半端に発達の早い自分が憎かった。
羽衣は好奇心旺盛で、四六時中トラブルを引き起こしていた。おしゃべりはできるくせに自制心は年相応。その度に両親……特に父さんは羽衣へと真っ先に駆けつけていた。
僕が父さんに絵本を読んでもらっていても、優先順位はどうしたって暴れん坊の羽衣である。
狙っているのかいないのか、羽衣はいつも僕が絵本の序盤を読んでもらっているところでなにかしらやらかすのだ。
僕を母さんに任せて羽衣の元へ向かう父さん。
「がねね。望は羽衣大好きだなぁ。ムカついちゃうがねぇ?」
母さんの言う通り、当然不満である。
だが、そこで父さんは言うのだ。
「希羽はいい子だなぁ。羽衣も希羽くらい大人しくしててくれたらいいんだけど」
暴れる羽衣を抑えながら、困ったように笑って。
そう言われると、湧いて出ていたはずのモヤモヤしたものが、スッと消えていくのだ。まるで魔法のように。
その魔法の言葉は他にも効果があった。
僕自身も物事に興味がなかったわけではなく、羽衣のように赴くままに動きたくなる。
しかし、好奇心に負けそうになるとその魔法の言葉が過り、そのままなにもせずに終わるのだ。
いつしかそれが僕の当たり前になった。
唯一の例外は、司猫に会う時だけだ。
なぜかとても惹かれるのである。理由なんてない。
ある時、庭に来ていた司猫を見て一目散に近づこうとする僕を、後ろから抱えた父さんが言った。
「こらこら希ー羽。お前、司猫ちゃんには目がないよなぁ。まるで癒やしのにいちゃんみてぇ」
「……やぁし?」
「癒ーやーし! 嫌なことが消えちゃうの。父さんの仕事の先輩が言うんだよ。司猫ちゃん見つけるや否や近づいて『癒やし癒やし!』ってさ」
「やぁし! やぁし!」
「そうそう!!」
うなずいて笑う父さん。
この気持ちに名前があったと、僕は感動した。
父さんに教えてもらった特別な言葉な気がして、口癖になっていった。
いくら癒やしがいようとも。
あの魔法の言葉があろうとも。
ずっと羽衣ばかり構われている光景を見ていると、消せない不満が溜まっていく。
羽衣に遊んでいたおもちゃを取られたある日、それはとうとう爆発した。
近くにあった積み木を取って、羽衣に向かってぶん投げる。
それは見事に頭にぶち当たった。そして、羽衣はやられっぱなしでいる奴じゃない。すぐさま報復がやってきた。
殴り殴られ蹴り噛まれ。
近くにいた父さんが駆けてくる。
「こら! 暴力反対!」
そう言って父が抱えたのはやっぱり羽衣で。
「おれじゃねぇもん!! きうが投げてきたんだよ!!」
「希羽がぁ? なわけないでしょ。そうだとしても羽衣が怒らせるようなことしたんでしょーが!」
「してねぇわクソおやじ!!」
目の前で繰り広げられる会話を、僕は母に抱えられながら呆然と聞いていた。
どうやったって、父の優先は羽衣なのだと思い知らされたのだ。
父にも母にも読んでもらえないとなれば、村の人に読んでもらおう。
そう思い、絵本を抱えて家を出た。
あわよくば捜しにきてくれないかというのもあったかもしれない。
しかし、村の人にだってやることがあるわけで。
断られ、あまり遠くに行かないようにと言われるだけだった。
しょんぼりと気持ちが萎む。なにかが込み上げそうになるのを感じながら家に向かっていた時。ぶつかった。
俯いていたから気づかなかったが、目の前には和服のお爺さん。よく父と言い争っている。たしか。
「……そんちょ」
「……望の子か」
膝をつき目線を合わせてくる村長。そこに絵本を突き出した。
「そんちょ。読んでほしい」
村長は仏頂面の眉を寄せた。
「……悪いが、他を当たってくれないか。それこそ望や祈に頼みなさい」
望や祈。父さんと母さんのことだ。
読んでくれれば苦労はしない。
母さんは読み聞かせそのものが苦手で読んでくれないし、父さんは──。
また途中で羽衣の元へ行くだろう。
そこまで考えて、込み上げていたなにかが溢れ出した。
今までにないくらいの大きさで、言葉にならない叫びを上げる。目からは大量の水が流れてくる。
村長には駄々を捏ねているように見えたのかもしれない。
突き出したままの絵本を片手に持って、もう片方の手で僕の手を握った。
「……読んでやるから、家に来なさい」
そのまま連れられた村長の家の縁側で、優しい陽光を浴びながら。
僕は、生まれて初めて最後まで絵本を読んでもらった。
それ以降。僕は村長の家に潜り込んでは絵本を読んでもらうことが増えた。
村長は困った顔をするものの、邪険にしてくることはなく。
日を追うごとに、絵本以外にもおもちゃで遊んでくれたり、囲碁や将棋などの遊びを教えてくれるようになった。
僕にとって村長は、もうひとりの父さんになっていた。
こうも毎日のように村長にべったりだと、さすがに家族にも気づかれた。
村長に絵本を読んでもらっているところにやってきた父さんはわなわな震えていた。なにか言おうとしたものの、僕を見て困ったような、後ろめたいような顔をして口籠もると。
「約束、忘れてねぇよな?」
忌々しげに村長を見遣った。
乗っていた膝から村長を窺えば、彼も気まずそうな顔をしながら。
「ああ。約束通り決行する」
静かに言い切った。
4歳になる誕生日を控えた8月。
その頃から、父さんはよく自分の部屋の片付けをするようになった。
いらない物を処分して、必要な物をダンボールに詰め込んでいる。
時々その様子を覗いていたある日、父さんが摘み上げて見ていたそれに目を引かれた。
黄緑色の、布の輪っか。
ヘアバンドだ。
「とうさ、それは?」
「お、希羽。いやー、俺の先輩が誕生日にくれたんだけどさ。貴重らしくて全然使えなかったんだよな……でも、それじゃあ宝の持ち腐れかぁ」
せっかくもらったのになぁと頬を掻いていた父さんは、突然手を叩いた。
「そうだ! 誕生日プレゼントにしようか」
「……!」
「希羽、これ欲しいんだろ?」
こくんとうなずき、思わず目を輝かせたのは。
「おれも!」
数秒にもみたなかった。
こうなった羽衣はどうしようもないとわかっている。
父さんと羽衣の言い合いが始まったが、僕は最後まで聞くことなく部屋を出た。
こちらの地方の七夕は8月7日だ。
村では祭りに備えて、色々と準備が始まっている。
村の広場には笹が用意されていて、すでに何人かの願い事が風に靡いていた。
村長の家に向かうと、村長は和室にあるちゃぶ台で短冊を作っていた。
作った短冊は大きなクッキー缶に入れているようだ。
村長は僕の存在に気づくと。
「希羽。お前も書くか?」
そう言ってできたばかりの短冊とペンを差し出した。
喜んで受け取り、願い事を書く。
自分でもなにを書いたのかよくわからないものができたが、僕は満足だった。
「そんちょも!」
僕はクッキー缶から一枚新しい短冊を取り出して、ペンと一緒に村長へ渡す。
村長は一瞬困惑したものの、断ることなくそれを書いた。
後ろから覗いて見るが、平仮名すらわかりきっていない僕には理解できなかった。
村長は書いた短冊を折りたたんで、クッキー缶へ入れた。
当然一緒に吊るしに行こうと思っていたので首を傾げた。
「そんちょの願い事は吊るさないのかね?」
「私の願いは、もうすぐ叶うからな」
そう言って薄く笑う村長は、悲しそうなのに嬉しそうにも見えた。
誕生日の前夜。
時間的にはもう誕生日になっていたんだろう。
僕はふと、目を覚ました。
枕元にあるのは黄緑色のヘアバンド。
今度の誕生日にプレゼントすると言っていた、あのヘアバンドだ。
嬉しくなったのは一瞬だった。
なぜなら、それが置かれているのは僕と羽衣の間だったから。
──ああ、羽衣の物になるんだな。
悲しいとか。
悔しいとか。
そういう気持ちはなく。
ただ淡々と、事実を受け止めた。
──なら。せめて、一度だけ。
幸い羽衣は夢の中。今なら被っても怒られない。
音を立てないようにこっそりとヘアバンドをする。
こっそり悪いことをしている状況にわくわくした。
そして、近くにあった姿見に映る自分を見てさらに嬉しくなって。
……欲が出た。
父さんにも見てもらいたいと。
布団には父さんも母さんもいない。
捜そうとリビングに出れば、いつも閉じている裏口の扉が隙間を空けていた。
気がつくと、羽衣が僕に抱きついて眠っているところだった。
僕が夜のことを覚えていないことを知ると、羽衣は信じられないものを見るように目を見開くと、安心したように笑っていた。
僕の記憶は途切れていた。
裏口の扉を見てから先が、まるでノートの途中のページを無理矢理破り取ったみたいに、抜け落ちているのだ。
不思議に思っているところで村長との同居を告げられた。
そして、ヘアバンドを被っていたままだったことに気がつく。
慌てて羽衣に渡すと、羽衣は気まずそうな顔でそれを受け取った。
寂しく思ったが、これは元々羽衣に宛てた物なのだ。仕方ない。
そう思っていたその日の夕方。
「いらねぇから、やる」
雑な一言とともにそれは僕のもとへ帰ってきた。
「? 羽衣の誕生日プレゼントだぞ?」
「だから、いらねぇからやるっつってんの」
「?? じゃあなぜ一回もらったかね?」
「ちょっと汚れてたから綺麗にしてやっただけだわ。……おれはいらねぇからやる」
その後なにを言ってもその一点張りで、なにかを譲ったことなんてない羽衣にしては珍しいと思いつつも受け取った。
あの後もずっと、羽衣はなにも教えてくれなかった。
だが、年数を重ねれば聞かずともわかってくる。
それは8歳になり正式に祈念呪を務めるようになって、さらに確信へと変わっていった。
両親はもう二度と帰ってこないこと。
僕と村長が原因の一端だということ。
前者は薄々気がついた。
後者は消えた部分の直前の記憶から推測できた。
村長も関わっているとわかるのは、羽衣の村長を見る目が黒く濁っているからだ。あの日から、ずっと。
しかし、村長が悪いとは思えなかった。
『約束、忘れてねぇよな?』
『ああ。約束通り決行する』
あの時の父と村長の会話。
それに、あの日から村長は僕の名前を呼ばなくなった。
今や彼が僕を呼ぶ際は、祈念呪だ。
無機質な、冷たい声で。
あの時、僕は余計なことをしてしまったのだろう。
……思い出さなくても、わかる。
両親を殺したのは、僕だと。
それを決定づけたのは、11歳の誕生日だった。
七夕の祭り。
もう当日ともあって、笹には短冊がいくつも吊るされている。
「希羽。これ、なくなった!」
村の癒やしがそう言って見覚えのあるクッキー缶を差し出してくる。
毎年使っているからわかる。村長の物だ。
いつも余るくらいなのに、今年は使い切ってしまったらしい。
僕はそれを受け取って、村長の家に向かう。
たしか戸棚の一番上にしまうはずだと、クッキー缶を高く持ち上げた時。
中からカサリと音がした。
なにか入っている。
なくなったと聞いていたので不思議に思い、缶の蓋を開けた。
そこには折り畳まれた短冊が1枚。
だいぶ色褪せている。
うっすら文字が透けて見えるので、使用済みのようだ。
癒やしがなくなったと言っていたのは、使える短冊がという意味だったのだろう。
いつもは余った短冊で埋もれていて、今まで存在に気づかなかった。
(これって……)
記憶を手繰り寄せる。
そういえばあの時、村長にも願い事を書いてもらったんだっけ。
あの時は読めなかったが、今なら読めるとその短冊を開いて見た。
『終わりにしたい』
──村長に刀を振り下ろす父さん。割り込んだ僕。刀を手放す父さん。村長を掠める刀。地面に顕現する陣。僕を抱えて飛び退く村長。父さんに手を伸ばす母さん。光の柱に消えてなくなるふたり。
『約束、忘れてねぇよな?』
『ああ。約束通り決行する』
『そんちょの願い事は吊るさないのかね?』
『私の願いは、もうすぐ叶うからな』
巡る記憶。巡る言葉。
願い。約束。もうすぐ。
『終わりにしたい』
なにを?
決まっている。
あの役目をだ。
だから。本当は。本当なら。
──両親は、生きたかった。
──村長は、逝きたかった。
それなのに。
それなのに。僕は。
──両親を死なせて。
──村長を生かした。
どちらの願いもぶち壊して。
どちらの覚悟も穢して。
どちらの気持ちも踏み躙った。
続きを望む者を断ち切り、終焉を望む者を繋げた。
祈念呪とはよく言ったものだ。
願いを呪いへ反転する。
僕は祈念呪だ。
やることなすこと余計なことにしかならない祈念呪だ。
全てを思い出して、全てを知った僕は、いつの間にか両親の墓の前で、懺悔するように泣き崩れていた。
地面を引っ掻く指先は血が滲むも黎瀬の自己再生で意識しなければ勝手に治っていく。それを何度も何度も繰り返して。
僕という罪人を、この場で殺してしまおうと考えた時。
『死ぬなら儀式で死んでよ』
僕と同じく祈念呪を務める、あいつの声がした。
そうだ。そうだった。
(なにを考えているんだお前は。ここで死んでも迷惑なだけだろう)
祈念呪が生贄の儀式で、意味のあるものなのは今思い出したことで確信した。
死にたい奴が生贄になることほど効率のいいものはない。
遺体も残らない。
そしてもし村長が終わりを願っているのなら。僕がそれを叶えよう。
そうすれば全て丸く……。
(収まらないな)
一番重要な人物が抜けている。
なにもわからず両親を奪われて、その仇だと思い込んでいる相手と実際の仇。実質ふたりの仇と7年も暮らしている被害者が。
儀式に万が一が起きて、下手をすれば加害者家族として非難されてしまう可能性のある人物が。
僕は僕を罪人と思っている。が。
それを決めるのは、僕じゃない。
僕なんぞが決めることじゃない。
それを決める権利があるのは。
(……羽衣)
ただひとりの片割れだけだ。
ふらりと立ち上がり、今や自宅と化した村長の家に向かった。
この墓場から帰る場合、家の扉から入ると遠回りになる。
そう思って庭から家に帰ろうと足を踏み入れ、ずっと俯いていた顔を上げる。
そこには、縁側に腰掛ける村長と。
その背に包丁を振り下ろそうとする羽衣がいた。
無意識で、無我夢中で。
僕は間に滑り込んだ。
左頬に冷たいそれが食い込み滑る。熱くなる。
目の間には動揺する羽衣がいた。
後ろには村長の驚く気配がした。
そこで悟った。
また僕は、間違えたと。
殺されたい村長を助けて。
殺したがっている羽衣を止めた。
「そいつは親父達を殺したんだぞ!」
違うんだ羽衣。殺したのは僕なんだ。
なのに、どうして言えないんだろう。あれだけ断罪を求めておいて。
僕は、思った以上に君に嫌われるのが怖いのかもしれない。
「てめぇは家族より人殺しを取るのかよ」
違う。僕が君を選べないんだ。
あれだけ村長の邪魔をしておいて、今さら君とともに逃げようなどと。
虫がよすぎるにもほどがある。
去っていく羽衣を見送って、僕は村長と向き合った。
村長の目は困惑に震えていた。
僕が羽衣とともに行くと思っていたのかもしれない。
力が抜けたように膝をつく。
そのまま彼に謝罪の言葉を紡ごうと戦慄く口を開いた瞬間、それは静かに手を添えられて止められた。
「謝るようなことを、お前は私にしていない」
そんなはずはない。
その言葉すら、言わせてもらえそうにない。
村長が僕に罰を下すつもりはない。
……ならば。
触れられている手をそっと外して、両手で包む。
視線を合わせ、静かに告げる。
「僕があなたを終わらせます」
だから。
「僕を終わらせてください」
それだけで、村長は全て理解してくれたようだった。
了承を示すように、静かに瞼を閉じた。
今度こそ村長の願いを叶える。
叶えて僕も終わらせる。
こんな僕を終わらせる。
生贄も。精域の存続も。僕の知ったことじゃない。どうでもいい。勝手にすればいい。
僕はただ。
死にたいだけなんだから。
目の前の黒い瞳が僅かに瞠られる。
ああ。また、あなたの願いを阻んでしまった。
僕を殺すくらいなら真理を殺すというその刀を受けてしまった。
いくらあなたの願いでも、それだけは叶えられない。叶えたくない。
……でも、嬉しかった。
初めて真理と出会った儀式の夜に聞こえた、僕の名前。
あなたから15年間聞かなかった音。
言い間違いではなかったんだな。
僕の愚かな期待通りだったんだ。
同じだった。
僕も、父親のように思っていたから。
それが許されることではないとわかっていても。それでも。
こんなことなら、ふざけてでも呼んでおけばよかったですね──父さん。
「……それはっ! 希羽くんのせいじゃない、よっ!!」
真理。
きっと、君ならそう言ってくれると思っていた。
君が優しいのは、君に金銭欲を視せた時からわかっていたからな。
……あの人といい、君といい、拓馬といい、人が良すぎるんだ。
僕の司力を説明すれば普通はこう言うんだぞ?
『は? なにそれ金絡みなら心の中覗けるってこと?! 気持ち悪っっ!! 勝手に視ないでくれる??』
ってな。これは実際に生依から言われた台詞そのままだ。
ちなみに生依の金銭欲を視ないように配慮したことは一度もない。あいつは癒やしではないからな。むしろ覗きまくって煽り倒したから僕は奴と同類なのかもしれない。
生依といえば、あいつに興味がなかったのは事実だぞ。君達と星錬に行くまで名字も忘れていたし、出身も知らなかった。
だが、おかげでなぜあいつが出会った時からやたらと僕に構ってきていたかよくわかった。
仕事上とはいえ、精霊石なんていくら誠心誠意心を込めて頼もうが、どれだけ金を積んだところでくれないような奴が、必要以上のものを寄越したかも。僕がその力をここまで引き出せる理由も。
僕にとって重命賢生は、もうひとりの父親。
彼に家族を殺された君になんと言われても、これが僕の本心だ。
……そもそも僕がいなければ君の家族は死ななかったんだがな。すまない。
だから──君も、心のままに。
なんて。僕がこんな立場じゃなければ、言い切れたかな。
これで僕は終わるだろう。
あの人は戻れるだろうか。
ああ、できることなら。
──会わせてあげたかったな。
不意に足を掴まれる感覚に息を呑む。
なにを思ったか実感するよりも早く。
その意識は光に溶け込んだ。
光の柱が消え去った石畳には、希羽も老人の姿はなく。
ただ、真理ひとりだけが横たわっていた。
2023.12.31 初出