第16章
真理は死ななかった。
確実に希羽の元へ辿り着いたにも関わらず、真理の存在はこの世に留まっていた。
あれから何日経ったんだろうか。
しばらく部屋を出ていない気がする。
初めはそっとしておいてくれた家族も、今や食事時になると誰かしらひとり部屋にやってきて、一緒に食べるようになっているくらいだ。
鍵をかけた自室のベッドに腰掛け、どこというわけでもないところをただひたすらに見つめながら、またあの日の記憶に耽る。
あの後。わけもわからずに呆然としていると、あとからふたりの人影が近づいてきた。
拓馬と羽衣だ。
状況から全てを悟ったふたりはなにも言わなかった。
どこから手に入れたのか、拓馬の持っていた精霊石で空間を開き、あっさりと家に帰宅した。
拓馬はもうしばらく戻らないことだけを小さく告げて去って行った。
羽衣は家の門灯でもわかるくらいに目を赤くして。
「……俺は、どうすればよかったんだよ」
黄緑色のヘアバンドを握り込み、震える声で溢した一言が、頭から離れない。
(……どうすればよかったんだろう)
ふと、無意識に握り込んでいた手を開けば、身近な存在が現れる。
精霊石のヘアピンだ。
老人に刀で飛ばされたそれは一緒に切れ落ちた一部の髪を挟んでいる。
陣の外へ落ちていたのを拾って帰ったはいいものの、とても着ける気になれない。
(私のやってきたことってなんだったんだろう……)
なにもしないほうがよかった。あの日精域に行かなければよかった。精霊石など持たなければよかった。精域に興味など抱かなければよかった。
そうしていれば……。
母のことも、綺麗な思い出のままでいられた。
拓馬にわざわざ喪うことの決まっている義兄の存在を知らせることもなかっただろう。そもそも希羽がいなくなったことで老人が動いたのだとしたら、生贄にすらされていないのではないだろうか。
羽衣にだって、過去を掘り起こさせるような真似をしなくてすんだはずだ。困っているわけでもなかったのに、無理矢理介入したのだから。
希羽も儀式を阻害されることなく、願いを叶えられただろう。決まっていた儀式の日を早めるほどに辛かったはずなのに。
引き伸ばされた2週間以上もの間。彼はなにを思ったのだろう。
弟は癒やしになったかもしれないが。
(私、癒やしでもなんでもない)
以前彼の言っていた癒やしの一番の癒やしは己の癒やしという考えも、真理には当てはまらない。
だってそうだ。どう考えても羽衣の一番の癒やしは希羽なのだから。ご両親かもしれないが、少なくとも真理ではないのは明確だ。
(そもそもあの癒やしっていう反応自体、無理してただけなのかも……)
どちらにせよ、彼にとっての真理は罪の象徴であることに変わりはない。
そんな人間とともに生きたくなかった時を過ごさせてしまった。
(私、余計なことしかしてない……)
──本当に、余計なことしかしないなお前は。
脳裏で、あの日洗面所で聞いた声がする。
あの時の希羽は、思いもよらない情報にずっと隠してきた心の澱が溢れてしまったんだろう。
自分自身に向けた嫌悪。
(今わかっても、遅いんだよなぁ)
膝を抱え込んで、顔を伏せた。
曜日感覚が薄れてきたとある日暮れ。廊下から自室のドア越しに声がした。
母だ。
「明日、お墓参りに行こうと思うんだけど……真理はどうする?」
気を配るような優しい声音。
枕元に置きっぱなしにしていたスマホを緩慢な動作で見ると、今日が14日だとわかる。
あの日から一週間。長いこと籠っていたようだ。
(……そっか……もうお盆になるんだ)
お盆の時期は車で1時間ほどの距離にある霊園まで、家族全員で行っている。
いつもは迎えるという13日に行くことが多いのだが、真理の様子をギリギリまで見ようという話になっていたのかもしれない。
……霊園。お盆。
霊が浄土から帰ってくる時期。
(霊園になら……)
彼もいるだろうか。
なら、手を合わせに行きたい。
結局自己満足でしかないが、こうしているよりはいいはずだ。
何度か唾を飲み込んで、喉を整えてから。
「……行く」
小さく答えたが、母には聞こえたようだ。柔らかな声が帰ってくる。
「そう。なら、準備しよっか」
「……うん」
ゆっくりと自室のドアを開く。
恐る恐る階下へ降りてリビングへ入ると、ソファーでテレビを見ていた妹がこちらを見遣る。
「あ、お姉ちゃん!」
「……え、えっと……」
なんと言えばいいのか迷っているうちに、妹が距離を詰めてくる。
「やーっと出てきた! とりあえずお風呂入ってきなよ! 夏に一週間も部屋にこもるとか、絶対汗臭いよ!!」
そう冗談めかしに妹が真理に顔を近づけたものの、怪訝そうに目を瞬いた。
「あれ? そうでもない……いやでもベタベタだよ! さぁ入った入った!!」
「う、うん……」
真理は促されるまま浴室へと向かった。
風呂から上がり、真理は遅れて夕飯を食べ始めた。
父と妹、弟は食べ終わったらしく、リビングでくつろいでいる。
母と向かい合って食事をしていると、母が話を切り出した。
「ねぇ真理。お母さんの家で昔から伝わってるご先祖様のお話があるんだけど、聞かない? 真理、精霊の御伽話好きだったでしょ」
「え。家にそんな話あるの?」
初耳だ。暗い気分が脇に置かれる。
「そうなのよ。ちょっと子ども向けじゃないから今まで話してなかったんだけどね」
「え? 重いってこと? そんな話今聞いて大丈夫なのお姉ちゃん」
ソファーに寝転がりながら妹がこちらを見てくる。声色はいつも通りだが、その眼差しは若干心配そうだ。
その気持ちはありがたく受け取りつつも、母の話には興味がある。
「大丈夫! 気になるから聞いてみたいな」
妹に向けて告げたあと、そのまま話を促すように母を見た。
母は「じゃあお話しするわね」と語り出した。
ご先祖様はお兄さんに妹がふたりの3人兄妹でね。村でひっそりと暮らしていたのだけど、ある時村のしきたりで妹のひとりが生贄に選ばれたの。
生贄は絶対。ならばせめてもうひとりの妹は村を出ることを許してほしいとお兄さんはお願いしたの。村はお兄さんが執行役を担うことを条件にそれを承諾したわ。
ひとりだけ村から逃れることになった妹さんは嫌がったけど、お兄さんの必死の説得に折れたの。
お兄さんは『精霊と無縁になれ。人に紛れろ。子孫が狙われないように、その血を薄めなさい』という言葉を残して、生贄になる妹さんと刺し違えたと言われているわ。
「そして、そのお兄さんの言葉はこうして今のお母さんまで伝わってまーす! すごいよね!」
「…………」
顎に手をやり、目を伏せる。
その兄の言葉から察するに、彼らは黎瀬の民。精霊分が高かったのだろう。生贄は祈念呪の儀のことだ。
そして母は……。
「真理」
「えっ」
慌てて目を開けば。
平静に、けれどなにか見透かしたような瞳が向けられていた。
それは緩く弧を描く。
「無理には聞かないけれど……ほどほどにね?」
「う、うん……」
そうだ。母は薄くはあれど精霊の血が流れているのだ。
なんとなく、わかっているのかもしれない。
希羽が油を被った時に大したことないという拓馬の説得を聞き入れたのも、そのためな気がした。
(あ。ということは、悠くんも黎瀬の民ってことか。ほぼ人間に近いんだろうけど)
真理と妹は養子のため、白部家で血の繋がった子どもは弟だけである。
ふと弟のいる方を見ると、彼はリビングの窓際で虚空に向かって手を叩いていた。
「れぇく! れぇく!」
(れ、れーく?)
疑問に思っていると、ソファーの妹が言った。
「最近よく呼んでるんだよねぇ。イマジナリーフレンドかな?」
「遊びに来てるんじゃないかしら。お盆でしょう?」
「ちょっとお母さんそういうこと言わないでよー! 怖くなるじゃん!!」
「でも、この間りんごジュース渡したらふたつ欲しがってね? 多分飲みきれないだろうから渡してみたら、空のパックをひとつしか返してこなかったのよ」
「いやいやいや! どこかに隠したんでしょきっと!! 貯食行動的な!」
「そう? 見当たらなかったけどなぁ」
面白がるように首を傾げる母と、恐怖を払拭しようとする妹。
話題の主である弟は、変わらず虚空に向けてにこにこと拍手をしているのだった。
真夏の霊園。
既に掃除をすませたであろう他所の墓石が、陽光を反射して煌めいている。
真理達はいつも私服できているが、これが喪服だったらと思うと想像するだけで熱中症になりそうだ。
部屋に篭っている間つける気になれずにいたヘアピンは真理のこめかみにいる。習慣というやつなのか、結局外に出るとなると無意識のうちにつけてしまうのだ。
鬱陶しい湿気と、もはや暑いを通り越して痛い日差しを受けながらも、まずは距離の近い母方の墓へと向かった。掃除などをすませて順番に線香をあげて手を合わせていく。
真理の順番になる。
こんな暗い気持ちで会いに来られて、ご先祖様はどんな顔をしているのだろうか。
馬鹿な奴だと笑ってほしい。
心の中で挨拶をしたうえで、ご先祖様に申し訳ないと思いつつも、彼の姿を思い浮かべた。
(……希羽くん……)
許しを乞おうとか、なにかを言おうとかではなく。
ただ手を合わせ、祈った。
しばらくしてゆっくりと目を開くと、墓石に刻まれた『重命』の文字に迎えられる。
合わせていた手を下ろす。そのままぼーっと眺めていると、背中で会話。
「なぅなぅ!」
「うんうん、なむなむだね悠くん」
「それじゃあお父さんの家の方も行こうか」
「そうだね! お姉ちゃんー? 先に行ってるよー」
妹の声かけに生返事をする。
足音が遠ざかるのが聞こえ、家族が父方の先祖の墓へと向かったのがわかった。
(……重命……)
母の旧姓。昨夜の母の話。
そして、あの時の重命賢生の発言。
『……後に引けない。それだけだ。妹を殺したあの日からずっと』
この一週間、それどころではなくて思い出せていなかったそれ。
偶然にしては、類似点が多い。
(いやいや、そもそも重命賢生って先週まで生きてたし。重命姓がお母さんの世代まで同じのが続くとかなかなかないだろうし……っていうかさっきからご先祖様に失礼じゃない私!!)
先祖とは関係のない相手へ祈るうえに殺人犯と結びつけようなど。
(ごめんなさい! 今だけ、今日だけ許してください……っ!!)
一気に申し訳なさが込み上げてきた真理はもう一度手を合わせ、ぎゅっと目を瞑る。
少ししたのち、その目を開ければ。
墓石に刻まれた『重命』の文字……。
──ではなく。
背まである銀髪を三つ編みにした、紫色の瞳の青年に迎えられた。
(……え?)
叶一かと思ったが、違う。希羽の銭化で見た叶夜でもない。
だが、そのふたりに瓜二つな男性が真理の目前にいた。
そしてここは墓前だ。
今、真理に向かい合って立てるようなスペースはない。
そう。そいつは透けている。
墓に寄りかかるように背を沈めて立っている。
その顔は驚いたように目を瞠っていた。まるで今の真理の心情を写すかのように。
「…………」
……奴だ。物理無効で倒せないあいつだ……。
(ゆ、幽霊……)
そりゃあ精霊がいるのだから幽霊がいるのはおかしいとは思わない。
だから存在に驚いているというよりは、叶一や叶夜に似た人物が真理の先祖の墓にいることに驚いている。
そして危害を加えてきたとしてもこちらには対抗する術がないことを懸念しているのだ。
「……白部真理」
喋った。
「ひ、ひいぃ! すみません!! 大人しく成仏してくださいぃー!! あっ、いや今お盆で帰ってきてるんだっけ!? じゃあそのまま! そのまま姿だけサッと見えなくなって現世を満喫していただいてもよろしいでしょうか!!」
手を合わせて頭を下げる。
「……この姿じゃわからんか」
「え?」
真理が恐る恐る頭を上げると、青年の姿はじんわりと変わった。
まるで冬の白い息が、外気に馴染むように。
肌の瑞々しさが失われ、髪から色が抜ける。瞳が暗く、黒くなっていく。
それは忘れるはずのない、因縁の相手だった。
「重命……賢生……」
「お前が子孫とは知らなかった」
そんなのこちらも同じである。
「……血は繋がってませんけどね」
動揺する心を抑え、視線を逸らした。
同じ名字だとは思っていたが、まさか本当に血縁だとは。
「てっきりすぐにでも殴ってくるものと思っていたが……」
「これで殴って墓石壊したら私が怒られるだけじゃないですか!!」
「それもそうか。冷静だな」
別に冷静なわけではない。
今ここでぶん殴りたいほどの憎悪はないが、過ぎたことだと笑って水に流せるほどの寛容性もないという複雑な相手ゆえ、慎重なだけだ。
「……さっきの姿はなんなんですか? 精神年齢ってやつですか?」
視線を逸らしたまま問う。老人は無表情へと戻り。
「……最初に死んだ時の姿だ。千年ぶりだから、私も違和感しかないがな」
「……さ、最初……? 千年……?」
困惑しながら逸らした視線を戻す。老人はそんな真理を見て、観念したように目を細めた。
「私は千年前に祈念呪の儀で執行役を担い、祈念呪を務める妹と差し違えた。それで全て終わりになるはずだったが……分離顕現にて人間として顕現した」
とても耳に覚えのある話が聞こえてきたが、真理が気になったのは後半だ。
「分離……顕現……?」
「精霊と人間の要素が分かれ、どちらかとして再び顕現する現象だ。発生条件は未だに不明……そもそも、千年生きた私でさえ同じ現象に陥った者にひとりしか会ったことがないから、極めて稀に起こるというだけのものなのかもな」
真理に淡い期待が宿りかけるも、極めて稀という文言に儚く散った。
「ただひとつわかっているのは……祈念呪の儀でしか死ねなくなるということだけだ」
老人は穏やかに目を伏せ、呟く。
「おかげで……ようやく終わった……あいつもそうだといいが、どうだろうな」
その言葉にハッとする。
そうだ。そもそも真理が会いたかったのは目の前の彼ではない。
「希羽くんに会ってないんですか!?」
掴めないとわかっていつつも、老人の胸ぐらへ手を伸ばす。彼は感情を波立てることなく返す。
「ああ。あいつとお前の父親には会ったがな」
「えっ……なんで??」
「なぜと言われてもな」
「いや、だって……」
天国と地獄なんてものが本当にあるのかはわからないが、あるのならこの老人の行き先は地獄だろう。
なぜなにもしていない希羽の父と真理の父に会えるのか。
「だって会うなら普通行き先が同じような人じゃないの?」
──辛かっただろうなぁ父さん。優しい人でさぁ。あの女の介入がなかったら、元々付き合ってた恋人と幸せになれたのかなぁ〜?
「……私の、お母さんとか」
生依の言葉が脳裏を過り、俯きながら口にした。
老人はただ静かに答える。
「……私は死んで間もないものでな。まだ地獄とやらを見ていない。有無すら知らん。ふたりがすぐさま私の元に駆けてきただけだ」
「あ……な、なるほど……?」
「ただ」
「ただ?」
「精霊の死は、人間のものとは異なるのかもしれんな」
「…………え?」
それって、どういう。
そう追求しようとした時。
──びしゃり。
柄杓で掬った水を落としたかのような音が、真理の背後に響いた。
バッと振り返る。
人はいない。少し安堵して目線を落とせば……異質なものを捉えた。
(……泥?)
墓の前の砂利道に、泥が落ちていた。
いや。泥という言葉が一番当てはまる気がしただけで、これは泥ではない。
なにせそれは、紫黒色なのだから。
なんだろうとかと思う間を与えず、それはひとりでに動き出す。
泥はその身を震わせながらみるみると質量を増していき、不定形な四足動物を形作る。それは車1台覆い被せるほどの大きさだった。
空想から出てきたようなそれは、輪郭が時折り波立つようにぼやけている。まるで存在してはいけないというこの世の理に抗うようだ。
目と言えるものが確認できないのに、それは確実にこちらを視認しているとわかる。
これは、なんだ。
身体は無意識に身構えているが、心が追いつかない。
狂わないでいられるのは、やはり精域の存在を知っているからだろうか。妙に冷静な自分が俯瞰して呟いてくる。
このまま固まっていてはまずいと、なんとか揺らぐ思考を叱咤しようとした時。老人の声が当たる。
「恨猟」
「怨霊!?」
途端に金縛りが解けたように真理は動けるようになった。外部からの刺激様様だ。
いつの間にか老人は隣にきていたようで、真理の反応に呆れたように眉を顰める。
「……似たようなものだな」
「え、嘘。じゃあ物理効かないってこと……?」
「衝撃は与えられるだろうが……あれに効くのは司力だけだ」
老人が小さく「千年ぶりに見た」と溢すのが聞こえたが、今はそれどころではない。
目の前の化け物をどうにかしなくては。
(触ったらヤバそう……そもそも触りたくないけど!!)
しかし、当然だが今日は薙刀を持ってきてない。
(近くに長い物……)
辺りを見る。長い物といって一番に目についたのは塔婆だった。
(……めっっっちゃ罰当たりそう。いや絶対罰当たる……)
「とか言ってる場合じゃないっ!!」
恨猟が一本の足を振り下ろす瞬間に飛び退く。さっきまでいた地面は大きく抉れていた。
墓石の後ろに並ぶそれを一本拝借する。
「ご先祖様許してくださいっ!!」
「構わんぞ」
「あなたもしかしてふざけてますぅ!?」
「私は正しく先祖だが?」
「そうですけどぉぉ!!」
正直こんな木の板でどうこうできる相手とは思えない。一歩間違えれば死ぬだろうこの状況で、よくもまぁ呑気な返答ができるものだ。
そんな真理の思考を悟ったのか、老人は言った。
「安心しろ。──どうせ死ねない」
どういう意味かと訊き返す暇もなく、真理は恨猟と対峙する。
再び片腕を振り下ろしてくるのを塔婆でいなそうとするが、真理の思った通りそれは脆くも破れた。続けてもう片方の腕を横に振るってくるのを飛び上がって回避したところで。
奴の背から尾のようなものが伸び、鞭を打つようにこちらへ落ちていた。
そう。気づいた時には奴の尾が地面へ着地していたのだ。衝撃を受けたであろう地面が遅ればせながらと砂埃を吹き出している。
そのそばにぽとりとなにかが落ちた。
赤い液体を滴らせる薄橙の長い物。その先端は5つに分かれている。
(……腕?)
誰のだなんて、考えるまでもないはずだ。
切り離された腕を視認する。
ない。
まるで雷のような速さで下されたそれに、真理の二の腕から先は切り落とされたのだ。
そうはっきりと自覚する──その前にそれは起きた。
二の腕の切断面から紫の光が続きを描くようにその先を形成する。光で義手ができたかのようだ。その造形が終わったと同時に光は弾けて消え、そこには元々存在していたものと変わらない腕が生えていた。
痛みを知覚する暇もなく事が終わり、いったいなにに驚けばいいのかわからなくなる。
瞬時に腕を落とせる奴の尾の威力か。自分の腕がなくなったことか。その腕が再生したことか。
恨猟は落とした真理の腕に興味を引かれたらしく、口に含んで咀嚼している。
「ほらな」
老人が腕を組んで満足気に目を瞑る。
い、いや……『ほらな』じゃないんですけど。なんて返すよりも先に湧き上がったのは、歓喜だった。
この状況でわかったことに対する喜び、それは。
「これでいくらでも戦えるってこと!?」
思わずガッツポーズをする真理に、老人は呆れたような眼差しを向ける。
「……間違ってはいないが……」
「あっ。でもこのままじゃあただ死なないだけで勝てないかぁ」
どうしようかと頭を捻ろうとしたところで突然、恨猟は這いつくばった。
「え?」
食休み……というわけではなさそうだ。奴は懸命に起きあがろうとしている。
しかし、まるで見えないなにかに押しつけられているように動けないでいる。
「へぇぇ。君ってほんとに狂ってたんだねぇ? 異名負けしてるかと思ってた。案外君らって類友……いや、あいつのは自暴自棄だから違うか」
聞き覚えしかない声。
後ろからだ。
「こーんにちはぁー!」
その声の主は、重命の墓石にしゃがみ込むように降り立った。
纏っているのは黎装だろうか。カソックのようなそれに似つかわしくないヤンキー座りの体勢である。
(い、生依……!)
くるふわな髪が、顔を上げる動きで柔らかくなびく。
目が合った。途端。
黄緑色の双眸をもつその人から。
「あ、真理ちゃん!」
にっこり笑顔が向けられた。
「…………」
ゾワワワワという擬音が出てきそうなほどの寒気とともに、全身にぶわりと鳥肌が広がる。
「は??」
自身の顔が引き攣る感覚がする。
いつも心の底でのみ響かせて表に出すことのない低い音が漏れたのは拒絶反応だ。
誰だこれは。こいつも化け物が生依を形作ったものなのか。だとすればいいサンドバッグになりそうだ。
なんて思っている間に、目の前の笑顔はガッと眉を寄せ、吊り上げた。
「ちょっとお!! 今僕で喋らないでくれる!? 気持ち悪いんだけどぉ!!」
(あ、生依。本物だ)
なぜだかすごく安心したところで。
「わりぃわりぃ! とりあえずほら! まずは人目を避けんだろ?」
再び生依とは思えない言葉が出てくる。
いつもの彼の口ぶりからして、まるで生依の中に誰かいるような様子だ。
「君に言われなくてもわかってるってば!!」
今まで髪に隠れて見えていなかった左耳でなにかが光る。
緑がかった金色の石だ。馴染み深さを覚えるその色は。
(希羽くんの、目の色)
答え合わせでもするかのように、生依は唱えた。
「銭幻」
周囲に膜が張ったような気配がする。
生依は続けて、招くように手をやった。折れた塔婆が生依のもとに引き寄せられる。
彼は嫌そうな顔で塔婆を繋ぎ合わせるように握ると、一瞬エメラルドグリーンの光が塔婆を包み込む。それがすんだのを確認すると。
「ほら」
そのまま足元にカランと投げつけられた。
慌てて拾うと、塔婆はすっかり元通りなうえに、輪郭に白い光を纏っている。
「ちょっとぉ! 罰当たりでしょ!! っていうか墓石から降りなよ!!」
「折った人がそれ言うぅぅ? 仕方ないじゃん。いい感じに降りれるとこここしかなかったんだもん。いいよねぇおじいちゃん?」
「構わんぞ」
「ほら、いいってさ」
「あのねぇぇ!!」
「ちょっとバラすから、そしたら君も手伝ってよ」
「ば、バラすって……!」
生依は恨猟を見て手招きする。
起きあがろうともがいていた恨猟の下半身がさらに沈む。しかし、上半身は解放されたような動きをし始める。
「せぇーのっっ!」
さらに生依が手招きすれば、恨猟の上半身はこちらへ引き寄せられる。しかし、下半身は押し付けられたままだ。
しばしの抵抗も虚しく、恨猟はぐちゃりと音を立てて引きちぎられた。
自分のもとにやってきた上半身を、彼は思い切り上空へと殴りつける。殴りつけたその手は白い光を纏っていた。
「君もあっち行きなよ」
生依は墓石から降りると、今度は足に白い光を纏い恨猟の下半身を蹴り上げた。
空を舞う真っ二つになった恨猟。
ニヤリと笑った彼は、分かれた恨猟に目をやると今度は両手で大きく招くような動作をした。
分かれた恨猟が勢いよくお互いに引き寄せられる。
せっかく引き離したそれを戻すのかと思ったのは一瞬のことで。
威力を持ってぶつかり合ったそれは互いを削り合い、飛び散る。
ぶつかった衝撃で再び離れたそれらを、生依はまた引き寄せる。
ぶつかり、散って、またぶつかって。
何度も繰り返されるうちに、恨猟はもはや形作ることもできなくなったようだ。最初に見た泥の塊状態となり、墓場にぼたぼたと落ちてくる。
その光景に釘付けになっていると。
「なにぼさっとしてるのさぁ。君でもやれるようにしてあげたんだから働いてよ。好きなんでしょ?」
言われて周りを見る。生依の司術によってばらけた恨猟は泥のような姿に戻ってはいたが、未だ動いており、じわじわと本体へ戻ろうとしているようだ。
「言っとくけど君が素手で殴っても無駄だからね?」
「わかってるよ! 司力しか効かないんでしょ!!」
おそらくこの塔婆に司力を込めてくれたのだろう。輪郭が白く光っていることから、さきほど生依が手足に纏ったものと同じものだと察する。
泥となっているこいつらなら容易く始末できるだろう。
真理は塔婆を泥へと叩きつける。泥は塔婆を受けた途端に霧散し、まるで初めからなにもなかったかのようにいなくなった。
生依も白い光を纏った足で泥を蹴り潰していく。
一通り片付いたところで、恨猟によって被害を受けた地面を塔婆の時と同じように直してから、こちらへ顔を向けてきた。
「はーい、お疲れ様ぁ。ま、色々訊きたいだろうけ」
「真理ちゃん! 今ちょっとバタバタしててさぁ。どーにかなったら会いに行くかんなー! それじゃ!!」
「だぁぁかぁらー!! 今の状態で喋らないでって言ってるでしょぉぉ!!」
生依の顔で再び快活な笑みを向けられたかと思うと、次いで出た彼の文句の声とともに、その姿は空気に馴染むように消えていった。
(あーもうっ!! 色々訊きたかったのにっっ!!)
いなくなってしまったものは仕方がない。真理は肩を落とした。
それにしても生依の司術はすごかった。あんな高度なのものは初めて見た。
(なんで今まで使ってこなかったんだろう?)
あの実力なら、真理のことなど一瞬で送れただろうに。
いや。生依ができるのにやらないというのは考えにくい。
だとすれば、やらなかったのではなく。
(できなかった……?)
なぜかはわからないが、それが一番腑に落ちると真理は思った。
そして、生依の左耳にあった精霊石。あれはおそらく希羽のものだろう。希羽は生依と同僚だと言っていたし、彼も生依の精霊石を持っていた。
銭幻まで使えるということは、案外ふたりには深い信頼関係があったのかもしれない。
つい過去形にしてしまったところで、真理はハッとする。
「なんで私の腕再生したのっ!?」
「……遅くないか?」
「訊く暇なかったもん! なんでですか!? なんか知った風に死なないとか言ってましたよね!?」
今も腕を組んで立つ老人に叫ぶように問いかける。
「お前は人間に分離顕現したんだ。私はあの時霊として見ていた。発動した陣に入ったお前が生きているのはそれしか考えられない」
「……え?」
分離顕現。精霊と人間の要素が分かれ、どちらかとして再び顕現する現象。
……ということは。
(私って……黎瀬の民だった……?)
ずっと人間だと言い続けてきたが、両親が黎瀬の民だったのは事実。
真理も黎瀬の民だったというのは納得せざるを得ない。自覚のない黎瀬の民はそこら中にいるのだから。
それに、そうでなければ重命賢生が真理を狙う必要がない。
(……そっか……)
真理はゆっくりと目を閉じた。
(もしかして私もなんか使えたかもしれないってことぉぉ!!? くぅぅぅ……使いたかった! 司術のひとつくらい使ってみたかったぁぁぁ!!!)
拳を握り込んでわなわなと震わせる。
せっかくなら黎瀬の民というものをこの身で体感してみたかった。
自覚さえできれば覚醒したのだろうか。なんて思ったところで、思い出す。
(……でも、希羽くんも坂井くんも私に黎瀬を感じなかったんだよね?)
パチリと瞼を上げる。
ふたりに直接言われたのだから間違いない。
真理の場合両親が黎瀬の民なのだから、拓馬のような突然変異ではないはずだ。
自覚もなければ知覚もされない黎瀬の民もいるのだろうか。
真理は老人を見る。
「あの……あなたは、私が高い精霊分の持ち主ってわかってたんですか?」
老人は「いや」と否定して腕を組み直す。
「知覚はできなかったが、あのふたりの間に産まれて高くないほうがおかしいからな」
──自分に見合う精霊分の高い男を求め取っ替え引っ替え。
さきほどまで話していた声で、あの時の話の一節が綺麗に脳内再生される。
息が詰まる気がした。
「…………なる……ほど……」
納得せざるを得ない。
もしかすると老人も真理の母について多少なりとも知っているのかもしれないが、追求する気になれなかった。
それにしても、まさか家族の仇とお揃いの状態になっていたとは。だが、あの時陣に入ったことに対して後悔はない。
そこでふと、疑問が湧く。
「……ん? そういえばあなたって今の私と同じ状態だったんですよね? なんであの時希羽くんから受けた銭現の傷は再生しなかったんですか?」
「祈念呪の儀の陣が血を吸っていたからな。発動条件の揃った陣の中で再生は起きない。死ぬこともできないが」
「え。じゃああの時希羽くんが発動させるまでは生きてたんですか?」
「臨死状態が正しい。俯瞰して見ていた」
「な、なるほど」
納得した真理を見て、今度は老人から疑問を投げかけてくる。
「……てっきり、恨猟について訊ねられると思ったんだがな」
「そうだった! もう倒したからいいかなって思ってたけど、今の化け物ってなんなんですか!? 他にもいるの!?」
老人は理解し難いと言いたげな顔を浮かべた。
「……恨猟。負の感情と司力が混ざってできた恨澱が集まるとああなる」
「恨澱って……あの泥のこと?」
「そうだ。恨澱はまだしも恨猟は千年見ていなかったんだがな」
それに、と彼は続ける。
「恨猟は強い恨澱か司力に惹かれる。なぜここにきたのかがわからん。私にも、お前にも司力はないだろう」
「この精霊石に釣られてきたとか?」
こめかみのヘアピンを指差すが、すぐに否定される。
「いや、精霊石の司力は使う時以外はほぼ封じられているような状態だ。滲み出る司力程度で恨猟は来ない」
生依に惹かれたとも考えたが、彼がきたのは恨猟が現れたあとだ。
ならばいったいなぜだろうか。
真理が考え込んでいると、老人はなにかを目に留めたような反応ののち。
「……さて。そろそろ私は退散させてもらおう」
「いやいやちょっと待ってくださいよ!! まだ訊こうとしてたことがあるんですけど! さっき精霊の死とか言ってましたよね!? それにあなたなんで叶夜さん達に似てるんですか!?」
「それについては、私から聞く必要はないだろう。死人に口なしと言うしな」
「いやさっきまでべらべら喋ってましたよね???」
「……では、さらばだ」
「ちょっとぉぉー!!」
老人は墓石の方へ後退するようにスッと消えていった。思わず呼び止めたところで「お姉ちゃん!!」という妹の叫び。
バッと振り向けば、家族が揃ってこちらの墓へ戻ってきていた。老人はこれに気づいて消えたのだと悟る。
「いつまでもこないから心配したじゃん!」
「ご、ごめーん!! 急いでそっちのお墓にも挨拶してくるから待っててー!!」
「まったくもー!!」
真理は急いでもう一方の墓に向かうのであった。
「あー。暑かったー!! 汗びしょびしょだよぉ。もう!!」
「本当にね……」
妹は急いでリビングに駆けていく。続けて真理も中へ入る。あらかじめ冷房をつけていた室内はひんやりと心地よい。
「あーー癒やされるぅぅ」
その言葉に思わず希羽を想起していると、妹がこちらを振り返った。
「それにしてもお姉ちゃん。なんか新しい制汗スプレーでも使ってるの?」
「え? 別に使ってないけど……」
「えーー? だって……昨日もだけどお姉ちゃん全然臭わないよ??」
妹は「いいやつ見つけたなら教えてもらおうと思ったのにー」と頭の後ろで手を組むと、お風呂に入る旨を伝えて去っていった。
自分で嗅いでみるが、たしかに無香料の制汗スプレーでもかけたように臭いがしない。
いったいなぜだろうか。
(……まぁ、考えても仕方ないか。臭わないならいいことだし)
真理はリビングのソファーに腰掛け、お風呂の順番を待つことにした。
夕食を終えリビングで休んでいると、インターフォンが鳴り響いた。
「はい。あっ! お姉ちゃん早く出てー!!」
妹が応答し、誰か判明した途端に真理を急かしてくる。
「いや誰か教えてよ!?」
と言いつつも、真理は玄関へ向かいドアを開く。
そこには。
「……久しぶり」
坂井拓馬の姿があった。
2024.6.1 初出