第12章
白骨化した遺体。
大体が粉々になっている。
……ということは、さきほどからジャリジャリと踏んでいたものも。
(ごめんなさいごめんなさいごめんなさいぃぃ!!)
真理は粉のない廊下の端っこを壁に背中を沿って駆け抜けた。
蟹歩きで全力疾走したのは人生で初めてだ。
突き当たりにあったドアを確認する余裕もなく開き突っ込み、勢いよく閉める。
まさかここにもあるんじゃないかと見渡したが、そんなことはなく安堵の息を吐いた。
落ち着いてもう一度辺りを見る。
机やキャスター付きの椅子。薬剤のようなものが並んだ棚。床には積まれた書類の束が崩れたものがいくつか。そしてすぐ傍に入ってきたのとは別にドアがあり、それについた四角い小窓からは光が差し込んでいる。
(小さい職員室みたい……いや、研究室なんだろうけど)
とりあえずここで落ち着こう。気持ちを安定させなければ。
(そういえば、あのまま持って来ちゃったんだよねこれ)
右手に掴んだままの『星錬試し合いベストセレクション』をぱらりと開く。
青竹色の曲がりくねった髪。
黄緑の双眸。
せせら笑いが聞こえて来そうな笑顔。
適当に開いた見開きで一番見たくなかった人物の姿を見ることとなった。
精神の安定どころではない。むしろ荒れる。こんなもの即視界から遮断だ。
しかし。思い切り閉じてやろうとした両手は、ある一点を見て止まった。
(……胸?)
その人物には胸の膨らみがあったのだ。
生依は男性だ。体格からの判断だが、それは間違いない。
(別人? あんなの何人もいてほしくないけど……)
写真の下にサラリと書かれた記事を読む。
天引生依。星錬の試し合いでの殿堂入りを果たしている強者。次の祈念呪にも選ばれている。
(あいつ、星錬の祈念呪だったんだ……)
そこからは天引家のことが書かれてあった。由緒ある家柄だの。権力がどうの。財産がどうのと、試し合いには関係ない余談がざっくりと。
(つまり名家のお坊ちゃんってことか……いや、お嬢さまかもしれないんだけど……)
もう訳がわからない。
これはあとにしようとポケットに入れて来ていたエコバッグを取り出し、その本をしまった。
今度は床に崩れて散らばっている書類の1枚をかかんで拾い、軽く目を通す。
『結果。女性の方がより優良な個体を生成できると判明。妊娠期間による影響と推察される。後天的な司力容量の拡張は不可能。髪を伸ばすことで質の向上は見込めるが、それを高めたところで意味はない。しかし人工精霊の生成には有用となる可能性大。引き続き──』
この後も専門用語の羅列がずらずらと並んでおり、真理の目はするすると滑っていった。読む意欲とともに手の力も抜けて紙は床へと落ちる。
ゲームの攻略本の要領でと思ったがだめだ。この間のあれは拓馬の語りが上手かったのかもしれない。
ただひとつ目を引いたのは人工精霊という単語くらいだ。
かがんだまま読んでいたので立ちあがろうとした時。
机の引き出しの奥から、なにかがはみ出しているのが見えた。
引き出しにたくさんものを入れるとおきるあれだ。真理にも覚えがある。
はみ出ているそれをひっぱり取ると、それはノートだった。
表紙にはなにも書いていない。中身を見てみると、それは日記のようだった。
そこに儀式の単語が見えたため、真理は集中して読んでみることにした。
ここ千年、儀式と研究を兼ねて続いている人工精霊の生成。
これまで多少の差はあれど、安定した精霊分のものができていた。
しかし、ここでついに起きてしまった。
精霊分が限りなく低いものが生まれたのだ。
人間に最も近い精霊。
人工精霊初の失敗作。
天引の儀で余る分は、万一のために次の九条の儀まで取っておくという決まりは、いつの間にやら守られなくなっていた。
失敗作など今まで生まれていないため、大丈夫だろういう気の緩み。後悔しても後の祭りだ。
今回は正に九条の儀だというのに、どうしたものか。
職員達は、検査にくる失敗作に八つ当たりをするばかりだ。
殴ったところで048の精霊分が高まる訳ではないのに。
奴らの人間性を咎めたいところだが、この最下層で命じられるままに生贄を造り、送っている私がそんなことを言える立場ではない。
しかし九条家も卑怯な奴らだ。忠実に祈念呪を送る天引家を陰で笑いながら、自分達は人工精霊を代わりに生贄を免れている。
そして特殊精域に送った精霊分の量を勝ち誇る。本当に卑怯な奴らだ。
その卑怯な奴らの命令で動いているのが私なのだが。
精霊の研究がしたかっただけなのに、どうしてこうなってしまったのだろうか。
奇跡が起きた。
人工精霊は千年前、ある黎瀬から抽出した精霊石から生成された存在。
その当時から何人もの黎瀬から人工精霊を造る研究が行われているが、今だに成功例はその人物のみだ。
現状は人工精霊から更に生成するというサイクルで回っている。
しかし、問題なのは人工精霊から生成できるのは一度のみという点だ。
人工精霊は元になった黎瀬と同じ姿をしているが、人間のような生殖能力はない。
つまり、次を造るには失敗作である048から精霊石を抽出するしかないのだ。
そもそも精霊石が抽出できるかも怪しかった048だが、なんとか人工精霊を生成することには成功した。
そして、生まれた049。
それが奇跡の産物だった。
限りなく精霊に近い存在。いや、精霊そのものと言っていいかもしれない。
結局前回の九条の儀は、祈念呪の事故死を捏造して中止となった。
今回は天引の儀だが、前回を中止とした分九条からも祈念呪を出すことになっている。
前回の中止分を補えるくらいの精霊分が送れるだろう。
九条は万一のためにと天引に仕込みまでしたようだが、杞憂に終わりそうだ。
049。研究のことを考えるなら生贄にするのは惜しい。
しかし、九条家は嬉々として送るよう言ってくるだろう。
儀式は18年に一度。
次の儀式まであと17年。それまでの間に、できる限り調べることとする。
儀式についての記述のある箇所だけ読んでみたが。
なんというか、まぁ。
(碌なことしてない)
ともかく星錬では、ふたつの家から祈念呪を出していたが、片方の家は人工精霊を代わりにしていたということか。
(真面目に祈念呪を送ってた天引家ってのが……生依の家系)
そして儀式まで17年という記述があるページの日付は25年前のものだ。
25年前から17年後といえば、8年前。
──星錬が崩壊した年だ。
星錬の惨状。
祈念呪である生依の生存。
確実になにかあったのだろう。
他の箇所にも参考になることが書かれているかもしれない。
日記を書いた人には申し訳ないが、持ち帰らせてもらおう。
真理はさっきの本と同じく、エコバッグに入れた。
それからしばらく調べてみたが、めぼしい物は見つからず。
さきほどの骨の散らばる廊下へ戻る気にはなれない。
となればと、真理は光の差し込む小窓のついたドアを開いた。
「……え?」
暖かい光が降り注ぎ、それを浴びる緑は時折やってくる風になびく。
草花の生い茂る田舎道がそこにはあった。
ここは地下だ。地下のはずだ。
ならこの陽光とそよ風はなんなのだろう。
見上げれば、青い空。
下層のような絵とは異なり、まるで空を切り取って貼り付けたような鮮明さ。だが所々にある雲に動きはなく、これが本物ではないことを悟る。
(幻惑の司術……とか?)
しかし、ここで考えても答えなど出ないだろう。
道とは言い難くなっている荒れたそれを辿るように足を進める。
しばらく歩いた時、緑多きその場所に似つかわしくない黒があった。
木の柵で覆われた広場の中に、大きな黒い染。
柵を超えて近づくと、それは焦げ跡だとわかった。
焦げ跡の上には黒くなった木片のようなものが積み重なって山を作っている。
どれも燃えきってしまっていて、手がかりになりそうな物は出てこなそうだ。
しかし、黒くなっている範囲からしておそらくなにか建っていたと思われる。
(ここにお家があれば広い庭でいい感じだよね……研究員の寮とかかな?)
広場をよく見ると、端の方に畑があった。
もう何年も放置されているのがわかる荒れようだ。
近くに刺さっている看板はさらに古い。ここを使わなくなる前からあるもののようだ。『にんじん』と拙い字で書かれている。
とても研究員が書いたものとは思えなかった。
(誰が住んでたんだろう?)
ともかくこの場所はこれで行き止まりのようだ。
真理の精霊石では、精域から精域には移動できない。一度自宅へ繋ぎ、再び星錬へと戻ることにした。
そこからまた下層へと降りれば、希羽達と合流できるだろう。
(これで前みたく星錬が記憶されてないなんてことにはなりませんように!!)
祈りながらも真理は精霊石を使った。
一度家に戻り、星錬へと繋いだ真理は記憶されていたことに安堵しながら下層へと向かった。
向かったのだが。
階層を降りれていなかったのかと思ってしまうほど、その場所は別物と化していた。
古風だが綺麗な家屋の並びは見る影もなく崩壊しており、砂埃が舞っている。
描かれた天井の蒼は所々穴が空いて、暗がりを生み出していた。
この短時間で自然災害にでもあったのかと思うありさまである。
なにかがあったのは明白だ。
急いで図書館へと走る。
今は争うような音や振動も感じないが、その無音が逆に真理を不安にさせた。
瓦礫の散らばった道を駆けながら、冷静に周囲を見ていく。
家屋の損壊具合は図書館に向かうにつれて酷い。加えて天井の穴の位置を考えると、図書館の方からなにかを扇状に解き放ったように思えた。
図書館がはっきりと見えたところで、ふたつの人影を視認する。
希羽と拓馬だ。
黒一色の衣の上に紫のケープの希羽に対して、拓馬は白を基調とした橙色の襟が映える羽織のようなものを纏っているのが目立つ。
希羽が黎装なのは確実なことから、拓馬も黎装なのだと確信した。
平然と腕を組んでスラリと立っている希羽。それに向かい合う形で、拓馬が地面に突っ伏して頭を抱えている。
一瞬最悪な想像をしてしまったが、己の頭をガシガシ掻いてなにかをぼやいているのを聞いて安心した。
希羽が近づいてきた真理に気づき、こちらに振り向く。
その顔に特に変わった様子は見られない。
「ああ真理。無事だったんだな」
「う、うん。……あの、えっ……と。ど、どうして坂井くんは、崩れ落ちてるの?」
訊きたいことはたくさんあるのは元々だが、とりあえずふたりの現状を確認したい。
希羽は目を閉じて考える素振りをした。
「僕が結婚していることがショックだったらしいがね」
「えっ?」
瞬時に拓馬が顔を上げた。
「誤解を招く言い方しないでくださいよっっ!! ……こいつ、俺の義兄だったんだよ。姉貴の旦那」
「え、ええええっ!?」
「通じたつもりだったんだがね?」
たしかに結婚しているのは知っていたが、まさか相手が拓馬の姉だとは。
村の子どもを人質に取る人物としか聞いていなかったので考えもしなかった。
(なるほど、つまり癒やしの一番の癒やしっていうのは……)
希羽の妻が一番大切にしている人。
それが弟である拓馬ということだ。
彼が拓馬に初対面の時親しげだった理由が今わかった。
「僕は君があんたは俺のなんなんだと訊かれた時に答えたぞ? お兄さんと」
「お兄さんでわかるか! 義理のって言えよ!!」
「家族に義理もなにもないだろう?」
「あのねぇ……! ったく……義兄さんなんて呼びませんからね!?」
「ああ。先輩の響きも好きだから問題ないがね。……とりあえず図書館から必要な本をもらってくるとしようか」
「え、待ってこの惨状はなんなのかは教えてくれないの!?」
真理の声を聞いているのかいないのか、希羽はスタスタと扉の開放された図書館へ入っていく。
その動きと光で、彼の胸元が煌めく。
ここで、彼のケープの留めている部分にペリドットのような黄緑色をした石が着いていることに気づいた。
思い返せば希羽が黎装の時はほぼ後ろ姿しか見ていなかったような。
希羽は黎装の際はヘアバンドをしていないが、していればそれとお揃いの色で似合いそうだなと思った。
(そういえば、希羽くんの精霊石って何色なんだろう?)
と、思い耽っていると。
拓馬が横に並び、希羽に聞こえないように小さく告げた。
「白部……そういう大事なことは早く言えよな。やっとわかったわ」
「えっ!?」
思わず出た大声に慌てて口を覆う。
もしかして拓馬も希羽が復讐を考えていることを知ったのだろうか。
「よくあいつと戦いたいってので納得してもらえたな」
「まぁ、だってそれも嘘じゃないし?」
「……だろうな……白部だから言える文句か。……ともかく、さっさと捜し出して取っ捕まえるぞ」
──取っ捕まえる。
拓馬は老人を捕まえるのが最善策だと思っているようだ。
心理的に止めることを考えていたが、たしかに物理的に止めたほうが確実である。
仇に手が出せなくなれば復讐はできないのだから。
羽衣はあんな状況だ。もし説得できて止めてもらったとしても、うまくいくかと言われると自信はない。
『祈念呪の儀で捧げられた者は跡形もなく消え去るからな。……都合がよいだろう?』
秋晴村での発言を思い出す。
希羽はあの儀式を利用して復讐を遂げるつもりだ。
確実に復讐を止めるなら、老人を捕まえて奴の持つ祈念刀も回収してしまったほうがいい。
「う、うん!! でも、儀式をしなくてすむ方法もあったらいいよね」
「だな。同時進行でいくか」
「……それで、ここの惨状は?」
気になっていたことを訊ねると、拓馬が言いづらそうに頬を掻いた。
「鎌かけて、藪蛇」
「え?」
「だから、ちょっと鎌かけたら地雷で……あいつ金銭欲探知できるから俺の不可視意味ねぇし。俺の周りはあいつの司力でいっぱいなわけだから、まぁ相性最悪でさ。宥められねぇかと思った……」
つまりあれだ。
拓馬は希羽と。
「戦ったってこと?!」
意識せずとも声が弾んだ。
「なに喜んでんだよこの惨状見ろよ死ぬかと思ったんだぞこっちは!! 絶対あいつと戦おうとするなよ!?」
「……はーい」
「不本意丸出しの顔で返事すんな!」
と言ったところで、希羽が戻ってきた。
「真理、拓馬。持ってきたがね」
「ちょっと希羽くん?」
彼の左手にあるのは司術や術式関係の本のようだが、右手に持っているそれはさきほど読んでいた司猫の写真集だ。
どうみても捜査には関係がない。
「一冊くらい好きなものを選んだっていいだろう?」
希羽は「それに」と真理のエコバッグに刺さっている『星錬試し合いベストセレクション』を指差した。
「君も持ってきているじゃないか」
「そうだけど! そうだけどね!? これはちゃんと捜査に関係あるもん!!」
真理の反応を他所に、希羽がチケットのような紙を差し出す。
「あとこの近くにある温泉宿の宿泊券がちょうど3枚見つかったがね。寄って行かないか?」
「ちょっと希羽くん??」
「大丈夫だ真理。どうせもうここには誰も来ない。永遠に本を借りていくのと同じだ。それにご主人は言っていた。もらえるものはもらえ。使えるものは使えと」
「おい完全に姉貴の影響受けてるじゃねぇか!!」
「だがこの宿泊券は今月末までだしもったいないがね」
「あのなぁ……」
呆れる拓馬。
このまま嗜められて収束するのだろう。
「先輩は平気でも俺ら高校生なんですよ? 親の同意書もなしに泊めてくれないんじゃないですか?」
(え? そっち??)
「精域にある宿だから問題ないがね。もし泊まれなかったとしても温泉には入れるだろう」
「あー、そっか。じゃあ行くわ。俺、念の為に橋本ん家泊まるから今日の夕飯大丈夫ですって言っといたんですよね! よかったー!」
思っていた未来と異なり、すっかり泊まる流れに困惑する。
「い、行くの坂井くん!?」
「おう。星錬の傍にある宿ならなにか訊けそうだしな! ってか先輩もそれを加味して提案してきたんでしょ?」
「いや、温泉で癒されたいだけだが」
「おい」
きょとんとする希羽に、拓馬の鋭い声がぶつけられた。
宿泊券に描かれた地図を頼りに丘を登っていると、ずっと緑だった景色にふと瓦屋根のある塀が現れた。秘密基地を発見したような心地だ。
塀の外からひょっこり見えるところだけでも、年季を感じる古風な宿だとわかる。
門の側には切り落とした木をそのまま使ったような看板がひとつ。そこには達筆で宿の名前が記されていた。
知る人ぞ知る名宿といった様相だ。
「ここかぁ」
「泊まれるみたいでよかったな」
「一応確認してみて正解でしたね」
あれから宿泊券に書かれた番号にかけて拓馬が確認したところ、今日はひとりしか客がいないらしく、当日にも関わらずあっさりと予約が取れたのである。
希羽は今朝のうちに夕飯の下拵えを済ませ、母に今日は帰れない可能性があることを伝えていたらしい。
なにも考えていなかった真理は、急遽羽衣の家に泊まるということにして連絡済みだ。
羽衣からは『おいふざけんな! 俺は便利屋じゃねぇんだぞ! こないだの礼もまだじゃねぇかバーカ!!』と返信が来ていたが今は温泉宿を堪能するのが一番だ。許してほしい。
門をくぐれば素人目にもすごいとわかる庭園。
砂利の海に浮かぶ飛び石を踏んで辿り着いた引き戸を、ガラリと開ける。
中に入ると、広い玄関。上がってすぐの正面に、受付のカウンターが待っていた。
人の気配に気づいたのか、奥から和装の女性がやってくる。胸元の名札を見るに、彼女が女将のようだ。
「いらっしゃいませ」
「予約した坂井です」
拓馬の渡した宿泊券を受け取った女将が説明を始める。
それをぼんやりと聞きながら周囲をうろうろしていると、カウンターの隣にあるコーナーに目が留まった。
売店のようだが、お土産売り場というよりは、資料館の一角という雰囲気を感じる。
「そちらは弟が精域の各地から集めて来た物を置いていまして……わかる人にはわかる珍しい品だそうですよ。よかったら見てあげてください」
いつの間にか説明を終えた女将が教えてくれる。その顔は私にはわかりませんけどと言いたげだ。
せっかくなのでと一通り眺めてみる。
怪しげな壺。謎の紫の液体の入った小瓶。着けたら二度と外せなそうな顔をしたお面など、さまざまなものが並べてある。
女将が理解できないもの無理はない気がした。
唯一まともそうな品に組紐を見つけるが、この中にあると曰く付きの物にしか見えず。手に取るのを躊躇う。
側にある商品説明には『恋樹の組紐』と記されていた。恋樹村の伝統工芸品であり、恋愛成就のお守りらしい。
その組紐はストラップになっており、かわいらしい革製のハートの形をしたタグが一緒についている。
それをふと、拓馬が摘み上げた。
「え? どうしたの坂井くん……あ。まさか好きな人いるの?」
「いねぇよ。このタグなんか刻んであるから読みたかっただけ」
そこには平仮名で『はづき』と書かれていた。名前のようだ。
「え、これ誰かの私物……?」
だとすれば余計に恐怖を感じる。そんな物が売れるのだろうか。
「恋樹の工芸品はもう造れる人がほぼいないからな。一度他人の手に渡ったものでも充分価値があるがね」
「希羽くん知ってるの?」
「同僚の故郷なんだ。君も秋晴村で会っただろう? あいつが恋樹の祈念呪だがね」
真理の脳内に、赤い長髪を高めの位置にお団子を作ったサイドテールにしている女の子が浮かぶ。
祈念呪の会での知人なのだろう。
希羽が故郷を覚えているあたり、生依よりも親しいのかもしれない。
そしてなにより記憶に残っているのは。
「ああ! 希羽くんの同人誌描いて痛い目にあってた人だね!!」
希羽の顔が虚無になった。
「真理。それは忘れるがね」
「え? なに先輩そんなもの描かれてたんですか?」
拓馬がニタリと笑う。希羽は空虚な目をしたままムッとした。
「拓馬。それ以上言うなら君の持ち物が全て如何わしいなにかに見える銭幻をかけるぞ」
「へぇ? 如何わしいってなんですかねぇ?」
「さてなぁ。君が如何しいと思っているなにかになるんじゃないか? ちなみに君にはいつも通りに見えるようにするから、どう見られてるかは周りの反応で予想してもらうことに」
目が死んでいるのに口元は笑っているのが怖い。
「あーもうわかりましたよ! ちょっとからかっただけだっての」
「ならいいがね」
頭を掻く拓馬に、満足そうに腕を組んでうなずく希羽。
ふたりのこういったやり取りを見るのは初めてではないが、新鮮味を覚える。なんとなく今までよりも近しい感じがするのだ。希羽の口癖が拓馬相手に復活しているのがそれを証明している。
(そういえばふたりは試し合いしたんだもんね。つまり青春漫画でいう夕日の河原で殴り合いしたあとってことになるのかな!?)
それなら仲良くなるのも納得がいくなと、真理は大きくうなずいた。
「ってかあいつやっぱり祈念呪だったんだな……怖ぇ奴」
拓馬が複雑そうに笑む。
そうだ。拓馬はあの女の子に連れられて秋晴村にきたのだ。
『あたしは突然黎瀬に覚醒した迷える青年を、近くの精域に案内しただけ』
秋晴村で希羽に向けて言っていたのを思い出す。
生贄の調達など、頼まれてやるにしては重すぎやしないかと思ってはいたが、彼女が祈念呪なら合点がいく。
(あいつとの取引だったのかな……)
老人は、どうしてそこまでして祈念呪を送るのだろう。
精域存続の使命感なのか。だとすれば随分と忠実なことだ。
拓馬は摘み取っていた組紐を、どこかゆっくりと元の場所へ戻す。そして切り替えるように店主に訊ねた。
「そうだ。8年前の星錬崩壊について、なにか知りませんか?」
「よく訊かれるんですけどね……ちょうど星錬の祈念呪の儀の日でしたから、儀式の失敗じゃないかってことくらいしか……」
女将から申し訳なさそうに告げられたのは、ひとつの大きな収穫だった。
案内されたのは、3人泊まるには余りある和室二間の部屋だった。
入ってすぐの間にテーブルと座椅子が4つ置かれている。襖に区切られた奥の間はすっきりとしており、壁の掛け軸が映えていた。
二間合わせると20畳近くあるんじゃないだろうか。
広縁を隔てるであろう障子は開かれており、奥に広がる大きな窓から立派な庭が一望できた。
「え、こんなに広い部屋使っちゃっていいんですか!?」
つい訊ねてしまう。
そのあとで、黙っておけばいいものをというずるい自分が頭の中で顔を出した。
女将はにっこりと微笑み。
「今日は特別ですから。二間なので、ご就寝の際は襖を閉じて部屋を分けさせていただきますね」
「ありがとうございますー!」
女将は食事を持ってくる時間を伝えると、お辞儀をして出て行った。
早速やろうと、真理達は星錬から持ってきた本を手分けして読んでいく。
2時間近く経っただろうか。まだ高いと思っていた日はだいぶ傾いていた。
持ってきた本を全て読み終え、大の字になって寝転がる。い草の香りが鼻腔を撫でた。
「まさか、星錬では祈念呪の儀が生贄の儀式ってのが周知されてるとはなぁ……どうりで儀式に詳しい本があるわけだ」
「そうだね……」
あの日記の内容といい、星錬自体が碌でもない所だったのかもしれない。
拓馬とともに、得られた情報を持ってきたノートにまとめていく。
祈念呪の儀は祈念呪の陣が内にいる対象の血を得ることで発動する。
ただし、執行者が祈念刀を持つ場合は、執行者の意思で発動できる。
「秋晴村の時坂井くんは傷つけられたりしてなかったから、あの人は祈念刀で発動しようとしたってことだね」
発動した陣の内にいる者は全て送られるが、祈念刀を持つ者だけは陣の内にいても送られることはない。
「あの爺さんが余裕で陣の内側にいたのはこれなんだろうな」
陣のないところで発動するには祈念刀が対象の血を得る必要がある。祈念刀から対象の足元を中心として即刻陣が展開される仕組みだ。これを略式と呼ぶ。
「これが13年前と、生依のやってるやつだね」
正式な儀は送れる精霊分が多く、範囲も広い。その分発動に時間がかかり、陣が一部でも欠ければ発動しない。
略式は送れる量と範囲が小さい分発動が速い。阻止するのは極めて困難。
高い精霊分を持つ者の場合、溢れたものが結晶化することもある。
「結晶化……精霊石になるってことだな」
「すごいね。坂井くんの推測通り」
略式を精域外で行うと、人の器まで分解する力が足りず肉体が残る。
「精域じゃないと遺体が消えねぇのか。これ精域暮らしじゃ気づかないわな」
「だね。13年前も遺体とかを司術で偽造したのかと思ってたけど、精域外だから遺体が残って……」
真理の手がスマホに伸びる。
13年前の事件を検索し、当時の状況が描かれた図を確認する。
リビングの入口付近に母。その奥に父と弟が倒れていたようだ。
あの日。真理は玄関からリビングを見た。
あの時ドアは全開だった。母が入口付近に倒れていたのなら、その姿が見えていたはず。
(あの時見たのは、血溜まりだけ)
記憶違いかもしれない。なのに。
無性に気になって仕方がなかった。
「まぁ、遺体なかったら生依の起こしてる事件で取り上げられてるだろうしな。納得だわ……で、先輩。いつまで癒やしに浸ってるんですか?」
拓馬は真理の動きを連絡かなにかの確認だと思っているようだった。
その呆れるような声に釣られて、真理も希羽を見る。
希羽は図書館から持ってきた司猫の写真集を眺めていた。思い出してみると、真理達が本を読み始めた時からこうだったような。
彼は仰向けに寝転んで写真集を掲げるように持ちながら。
「癒やしにならいくらでも浸れるがね」
淡々とこちらを一瞥すらせずに告げた。
「その割にはいつもの鳴き声がしませんけど?」
「頭の中で言っているぞ? 君達が調べ物をしているところを邪魔しないようにな」
「希羽くん……」
わかっていたことだが、希羽は捜査に参加する気があまりないらしい。
彼の目的が祈念呪の儀を用いての復讐なら当然なのだろうが。
「まぁ、あんたの目的を考えたら祈念呪の儀ができなくなるのは困るんでしょうけどね?」
拓馬も同じことを思ったようだ。
希羽は依然こちらを見ないまま。
「送らなくてよくなるのならそれがいいと思っている。……僕と村長殿が済んだあとでならな」
サラリと滑るように、平然と。
真理がずっと訊けなかったことが確定した。
(……やっぱり)
奴を殺して、自分も死ぬつもりなのだ。
羽衣の言っていた人質というのも、真実なのかもしれない。
呆然とする真理を不思議に思ったのか、希羽はようやくこちらを見た。
「なんだ真理。いまさらな反応じゃないか。僕は最初に言ったはずだぞ? ……いや、直接的には言っていないか?」
お腹に写真集を置いて、顎に手をやる彼は普段と変わらない。
それが逆に恐ろしかった。
「ま、捜査の邪魔してこないだけマシってことで」
拓馬も冷静だ。なぜそんなに落ち着いていられるのだろうか。
不思議に思う真理をよそに、拓馬は話題をずらした。
「けど、白部の趣味で持ってきた本にもちゃんと情報があるとはなぁ」
「だから捜査に関係あるって言ったよ私!? 全く関係ないの持ってきたの希羽くんだけだよ!?」
「がねね」
小さく舌を出し、お腹に乗せた写真集に腕を回す希羽。
「儀式の基本的なとこはまとめ終わったし、次はそれだな」
真理の嗜好で手に取ったあの本と、女将の話。そしてあの日記の情報を合わせてまとめていく。
星錬が崩壊したのは8年前の祈念呪の儀の日。
その儀式の祈念呪は天引生依、当時18歳。
「その生依が生きてるから、なにかしたとしか思えないんだよね……」
「ってかこいつ女だったの?」
「そこはもうスルーしとこう!? わからないとしか言えないもん!!」
儀式には天引と九条のふたつの家が交代で祈念呪を出していた。
「けど、この日記的に九条家のほうは毎回身代わり出して生き延びてたっぽいけどな」
「そうだね。それにこの部分」
──九条は万一のためにと天引に仕込みまでしたようだが、杞憂に終わりそうだ。
「碌なことしてなさそうだよね」
「だな……とか言っといてあれなんだけど、最下層に白部だけが行けたの、その精霊石だからみてぇなんだよ」
「え?」
「特定の者の司力にだけ反応する術式らしい。だから多分……」
真理の父か母か。または両方が関わっている可能性がある。
(生依が私を殺そうとしてきた理由……儀式以外にもあるのかも)
あいつに話を聞ければいいのだが。無理だろうなと真理が思ったところで、部屋に夕食が運ばれてくるのだった。
豪華な料理達に舌鼓を打ちながら、真理達は捜査のことは傍において他愛もない話をしていた。
真理の右隣に希羽が座っており、向かい側で真理と希羽の間になる位置に拓馬が腰掛けている。
料理の取り分けもだが、話のネタを提供してくれるのはほとんど拓馬だ。
(このコミュ力、羨ましい……)
真理は聞き役に徹することにした。会話に入らずとも人の会話を聞くのは楽しいのだ。無理することはない。
「で、先輩。姉貴と結婚ってことは、両親にも会ったんですか?」
「ああ。一度だけ挨拶に行ったな。君のお父さんは気さくに話しかけてくれて嬉しかったぞ」
目を細め、口角を持ち上げる希羽。拓馬は持っていた箸を落とした。その目は信じられないものを見た時のそれだ。
「あの置物親父が……喋った……!?」
希羽はそれを見て不思議そうにうなずいた。
「そういえばご主人も君のような反応をしていたな……。その日出た食事は全て拓馬の作り置きだったんだが、君の作る料理はどれも美味しいと言ってすすめてくれたぞ」
「いやそれ俺に言えよ!? なんで義理の息子にはペラペラ喋ってんだよ意味わかんねぇあのクソ親父!!」
拓馬は一気に言い切ると、一度大きくため息をついた。そして落ち着くように水を一口。
「ってか、あの人は大丈夫だったんですか?」
拓馬の母親のことだろう。真理も外野から希羽の返答を待った。
希羽はなんてことないといった表情で。
「特に危害は受けなかったぞ。僕の職業を聞いた途端に、認めない。私とあなたは赤の他人だと言ってきたから終始他人として接したんだが……お気に召さなかったようだがね。知らない方呼ばわりがまずかったのか? だが赤の他人の名前なんて知らないものだし……。僕とご主人とお父さんの食器だけ洗ったからか? だが他人の食器は洗わないだろう? 気の利いた会話をしなったからか? だが他人に必要のない雑談をしようとは僕は思わないし……」
希羽の話の途中から拓馬は震えて口を抑えていた。
ショックを受けているわけではないのは真理にもわかる。
笑いを堪えているのだ。
しかし、その努力も虚しく。
「ぶはっ!!」
堪えきれず吹き出した。
「ちょっと……! なんっで、そんなっ……くくっ……面白いこと……っっ俺のいねぇ時にやっちゃうんですかぁ! すんげぇ見たかったぁぁ!!」
「すまない。ちょうど君が合宿中だったがね」
「あー悔しいわぁ!! 想像だけでもこんなに笑えるのに……っっ! ……はぁ」
拓馬はようやく落ち着いたようだ。
「君のお父さんは終始優しかったぞ」
「その優しさを実子にくれっての!」
そう言って再び水を飲んだ拓馬は、そういえばと訊ねる。
「そういや先輩の家族はどんな感じだったんですか?」
「僕のか?」
きょとんとする希羽。
(ナイス坂井くん!!)
真理は心の中で称賛を送った。
彼やその両親の話を羽衣から聞いていたので失念していたが、希羽からしたらまた違った印象なのかもしれない。
特に彼の父親は羽衣にしか繋ぎ道を話していなかったこともあって、希羽から見た父親は少し気になる。
希羽は思い出に浸るように語り出した。
「そうだな……父さんは優しい人だぞ。特に羽衣には甘かった。僕が絵本を読んでもらっていても、羽衣がなにかすれば即中断して行ってしまうから、まともに読んでもらえなくてな……」
「先輩それクソ親父って言うんですよ」
「ちょっと坂井くん!?」
希羽は真理達の反応に可笑しそうに笑う。
「……だから、初めて父さんに最後まで絵本を読んでもらえた時はすごく嬉しかったな」
その時のことを思い出しているのか、微笑んでいる瞳は煌々と輝いていた。
(ああ、よかった……)
てっきり一度もないのかと思ってしまった。さすがにそれはないだろうよと己を咎める。
拓馬もふーんと相槌をしている。彼にはあまり想像できないのかもしれない。
「母さんは父さん第一という感じだ。でも父さんが羽衣に取られた時はよく一緒にいてくれたから僕はそこまで気にならなかったな。真理には言ったが、僕の口癖は母さん譲りなんだ」
「先輩の母親もがねがね言ってたのか。妹さんは?」
「羽衣は……食い意地がすごかったな。それにだらしなくて……飲み切ったペットボトルは台所にそのままだし、食べた弁当は出さないで放置するし、当番制にしても料理やゴミ出しは僕任せだし」
「あぁーめっちゃわかるぅー! サニタリーボックスのゴミくらい自分で捨ててほしいですよねぇぇ」
拓馬は姉もそうだが、母親のことも含めて言っているんだろうなと思った。
真理自身も覚えがあることばかりで、ふたりの愚痴が刺さる刺さる。
(これから、気をつけよう……)
自戒しつつも、やはり羽衣は希羽といた時と今とでだいぶ変わったんだなと思った。
真理の知る羽衣はしっかり者で家事もそつなくこなし、休みの日にはお菓子を作ったりするのだ。
以前それを希羽に話した時、彼がとても驚いていたのを思い出す。
無意識に希羽へ目を遣る。横から見た彼は遠くを見るような眼差しで。
「……まぁ、今はもう僕の知る羽衣ではないんだろうな」
ぽつりと溢れた声に、真理はなにも返せずに固まる。
なにか気の利いたことは言えないものかと焦っていると。
「で、妹さんのいいところは? これじゃただの愚痴で終わっちゃうじゃないですかー!」
拓馬がなんてことないように繋いだ。希羽も返答など求めていない独り言のつもりだったのか、平静に答える。
「そうだな。僕が困っていると颯爽と駆けつけてくれるのはかっこいいし、喧嘩をしている羽衣の動きは綺麗で好きだ。それに僕の料理を美味しそうに食べてくれるのは嬉しかったな」
希羽の頬が緩んでいく。
「……あと、小さい時は僕のことを名前で呼んでくれていたんだが。うまく言えないみたいできゅうきゅう呼んでくるのがかわいかったがね! 悠も村の癒やし達も呼んでくれるが、この名前でよかったと思える瞬間だな! 癒やし癒やし!!」
「なんか脱線してません??」
すっかりテンションが上がっている希羽に拓馬は呆れ顔だが、真理はいつもの彼が見れて安心した。
「ってか呼び方で思い出したけど、俺が義弟だってわかってたからずっと馴れ馴れしく名前で呼んできてたわけ?」
真理は訳を知っているから気にならないが、拓馬はそう感じていてもおかしくないだろうなと思った。
「いや。以前真理にも話したが、僕の村は全て星名姓だから名前呼びが通例なんだ。あまり親しさは関係ないがね。むしろ、あわよくば君が機嫌を損ねて離れてくれるんじゃないかと思ってわざと呼んでいた」
「嫌がらせのつもりだったんかいっ!!」
そこでふと、拓馬が疑問を浮かべた。
「あれ。でも、あの爺さん星名じゃなくね? 俺あの村で偽名名乗られたんですかね? 重命賢生って」
拓馬は少しの間だろうが秋晴村で奴と関わっていた。名乗っていても不思議じゃない。
「いや、それは本名だ。村では星名で通していると聞いたことがある。元々は星名村の住民ではないらしい」
重命賢生。
13年前から知っていたが、発することのなかった奴の名。
そういえば、その腕見たさによく各地の街や村から呼ばれるという話だったが、あれは祈念呪の儀のことを誤魔化すためだったかもしれない。
「真理は村長殿の名を知っていたのか?」
希羽が問いかけてくる。
「うん。秋晴村でも言ったけど、犯人とその行方は調べてたからね」
「ってかあんたらそんな話もしてなかったのかよ……まぁ、俺も今まで話題にしなかったけどさ」
真理は気まずそうに頬を掻く。
「いやぁ、どうせ呼ばないしいいかなって」
「……そうだな。呼びたい呼称で呼べればいいと思う」
「だよねぇ」
俯く希羽に真理は同意した。
必要のある場合にしか呼びたくない。
家族を殺した犯人だからなのはもちろん。
(お母さんの旧姓と同じなんだもんなぁ)
今の母は白部なのだから気にしなくていいとは思うのだが、やっぱり引っかかるのだ。
気づけば、真理達は夕食を全て平らげていた。
希羽と拓馬と別れ、女湯へと足を運ぶ。
一通り洗い終えて内風呂に浸かろうとしたところ、露天風呂の看板が目に留まった。
露天風呂。素敵な響きだ。
(行ってこよう!)
注意書きの貼られた扉を開き、外へ出る。
露天風呂は内風呂よりもずっと広く、にごり湯のようで底が見えない。手すりに掴まり岩の段差を踏んで降りる。
外だからかお湯は熱めだ。湯気が登って少し先は見えづらい。
お外の大きなお風呂にただひとり。開放的な気分だ。
お湯を掬い上げ、ばっと宙へ放る。返ってきたお湯が雨のように降ってきた。こんなこと普段じゃとてもできないだろう。
テンションが上がってばた足で波を作って遊んでいると。
「それやめてくれる?」
冷たい声に、真理の足は止まった。
と同時に、自分達の他にひとりだけお客さんがいると言っていたことを思い出した。
湯気で視認できていなかったなんて言い訳はあとだ。
すぐさまその場に正座する。
「ご、ごめんなさいっっ!!」
「……は?」
「……え?」
謝罪された返しとしてどうなんだそれは。訝しげに相手の方を見た時。
青竹色の曲がりくねった髪。
黄緑色の瞳。
右耳に光るエメラルドグリーン。
間近で見るその人は、やはり見つけた本に載っていた姿とは異なり。
男性だった。
2023.7.19 初出