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第10章

「まずは現時点で知ってる星錬(せいれん)の情報を精域の歴史を踏まえて話したいんだけど……」

「お姉ちゃんお風呂はぁー!? 遊ぶならやること済ませてからにしてよね!!」

突如として階下から聞こえた叫び。

「あっ」

そういえばまだ入っていないのだ。

すっかり忘れていた。

拓馬がドアを示すように掌を向ける。

「行ってこいよ。テーブルあったほうが都合いいから白部の部屋で待ってていいか?」

「うん、大丈夫! ごめんね5分で戻ってくるよ!!」

「真理。それでは入る意味がないがね」

「焦らずごゆっくりー」

本題は少し先送りとなった。

焦らずと言われても、人を待たせているという事実が真理を急がせた。

いつもなら30分はかけるところを半分で済ませて自室に戻る。

拓馬はミニテーブルに一冊の本を開き、所々に付箋を貼っていた。希羽はその様子を無表情で見つめている。しかしつまらないのか、その目は少し塞がっている。

「早くね?」

「明日ゆっくり入るから!」

「そうか? じゃ、さっきも言った通り星錬について歴史も少し混えて説明するな」

そのまま目的地の詳細を語ろうしたところで希羽が一時停止をかけた。

「少し待ってくれ」

そう言うと真理の部屋を出て行く。

言葉の通り、30秒もしないうちに彼は戻ってきた。

右脇に枕を携えて。

「よし、いいぞ。始めてくれ」

「白部こいつ殴っていいか? いいよな?」

「坂井くんどうどう」

拳を作る拓馬を宥める。

あれはつまらないのではなく眠たかったのか。そういえば希羽は農家で寝るのが早いんだったと思い出す。

「ってかあんた気ぃ許してんのか拒絶してぇのかどっちなんだよ!」

「それは僕も決めかねていてな……困ったものだ」

「困るのはそれに対応する俺だわ!! ……で、白部はちゃんと聞けるのか? 俺は寝かしつけるために話すのごめんなんだけど」

どうやら真理も寝るのではないかという疑念が湧いているらしい。

「私歴史の授業は嫌いだけど、ゲームの攻略本読み込むのは大好きだから精域の歴史なら美味しく聞ける気がする!!」

「嫌いなのは歴史だけかぁー?」

「座学全般かな!!」

「はいはいさっさと始めまーす」

拓馬は開いた本を見せながら話し出す。

精霊が降り立った地、精域ではあらゆることが司術によって成り立っていた。

移動は転移の司術、医療は治癒の司術など、司術が精域の文明を支えていたのだ。

しかし時が経つにつれ、だんだんと精霊の数は減っていき、黎瀬の精霊分も薄まっていった。

精霊分が減るということは、司術の文明の衰退を意味する。

今までの便利な暮らしを手放したくなかった黎瀬は、精霊石や精霊分の高い者の奪い合いを始める。

その戦いで最も多くの戦利を得たのが星錬だ。

星錬はここ最近まで古の黎瀬同様の便利な暮らしをしていたが、8年前に崩壊した。

政治的にではない、物理的にだ。

星錬に暮らす者は全て跡形もなく姿を消しており、潤沢にあったはずの精霊石も全てなくなっていたという。

生き残りがいないとのことで、これについては詳細が解明されていない。

そもそも星錬は他所に奪われないようにと幻惑の司術で情報規制を行なっていたため、星錬自体の情報すらまともに流れていないのだが。

「俺はこの星錬になにか情報があったりしないかと思ってる。崩壊直後は精霊石目当てに盗賊が漁りにきてたみたいだけど、なにもないってわかってからは誰も見向きもしてないんだってさ」

「それで、その星錬ってどこにあるの?」

「場所は九州らしいぜ。でも、その星錬に直接行ける方法を橋本に聞いたんだよ。この本も橋本に借りた」

「橋本先輩に? そういえばどうだったの?」

拓馬は昼間お礼を言いに行ったはずなのだ。

彼はげんなりと目を細める。

「彼女の膝に顔面擦り付けてえんえん泣いてた。……なんで彼女呼んでんだって話なんだけどな。なんのために事前に連絡してから行ったのかわかってねぇわあいつ。告白にふたりで来られた気分だったわ」

あれ罰ゲームなのか真剣なのかわかりにくくて嫌なんだよな。一緒に来た奴がニヤニヤしてんのどっちの意味よって感じ。とぶつくさ脱線する拓馬。

「あー……」

おそらく拓馬はふたりで真剣に話をしようとしていたのだろう。

そこに部外者である先輩の彼女もいて、ただでさえ話しづらくなるうえに彼女に縋って泣く姿を見せつけられたのなら。

(素直にお礼とか謝るどころじゃないかも……)

「でも、その彼女から星錬への行き方に繋がったんだよな」

「えっ、どういうこと?」

「どういうことって……あの子白部の後輩だろ? 聞いたことなかったのかよ。あの子も黎瀬なんだとさ。で、実家が精霊石やら転移の術式を扱う店やってる」

「ええぇ!? 青菜ちゃんも黎瀬の民なの!? 知らなかった……」

誰しも派手な見た目ではないのは知っているが、先輩に続き後輩までも。

「それで星錬なら有名どころだから直で行けるってことで、その店で術式を買うことにしたんだけど……」

「だけど?」

「その店の定休日が木曜と日曜なんだと」

壁にかかったカレンダーの方を見る。

ちょうど明日が木曜日なのだ。

「今日行ってきてもよかったけど、確認もしないでってのは抵抗あったからやめた」

「なるほど……まぁ明日は準備の日でいいんじゃないかな? 私もちょっと出かける用事があるし」

早く羽衣の話を聞きたい。

拓馬は半目になった。これは呆れだ。

「白部さぁ……殺人犯に襲われた自覚あんのか?」

「大丈夫! 同じ手は喰わないようにするよ!!」

「……ったく。じゃあ明後日3人でその店行こうぜ。あんたもわかっ……」

拓馬が希羽に確認しようとそちらへ向くと、彼は枕に頭を乗せすやすやと夢の世界へ旅立っていた。

そういえば拓馬の説明が始まってから一言も反応していなかったような。

「こいつマジで寝やがった……」

何度か揺すってみるが起きる気配はない。

「どうする? 夏だしこのままでも大丈夫だとは思うけど」

「いや連れてく。思い切り引きずってや……今こいつが着てんの俺の寝巻きじゃねぇかクソっっ!!」

自分の寝巻きが擦れるのは嫌だったのか、拓馬は片方に希羽、もう片方に本と希羽の枕を脇に抱えた。

真理はさっと部屋のドアを開ける。拓馬は「わり。じゃあ、おやすみ」と、そのまま出て行った。

真理も寝ることにした。一度1階へ降りて歯を磨いてからベッドへと潜り込む。

ひとり布団に包まっていると、考えてしまう。

母を殺したのは生依。

あの男は祈念呪だ。だが、真理へのあの態度や発言。

祈念呪として送るために殺す以外にも意味があるようだった。

母はなにか、恨まれるようなことをしたのだろうか。

(お母さん……)

3年しかない母との思い出を手繰り寄せる。

ひとつだけ、色濃く印象に残っている会話が再生される。

幼稚園の友達の誕生日を控えていたあの日。

真理は洗濯物を干している母に纏わりついていた。

『真理ちゃんのお友達、もうすぐお誕生日ね』

『うん! 楽しみ!! プレゼントもう決めたの!』

『ふふふ。プレゼントかぁ……』

母はふと、その場にしゃがみ込んで真理へと視線を合わせた。

『真理ちゃん。真理ちゃんがお姉さんになっても、お母さんを大好きでいてくれたら。お母さん、真理ちゃんにすごいプレゼントあげちゃう』

『えーー!? なんだろう!?』

『大好きでいてくれるかなぁ?』

『大丈夫! まり、お母さんのこと大好きだもん!』

『ふふふ、ありがとう』

真理が大きくなる前に、母はいなくなってしまった。

母はなにをプレゼントしてくれようとしていたのだろうか。

今となってはわからない。

真理は無理矢理寝ようと掛け布団を被った。

朝。羽衣から『10時以降に来い』とメッセージがきていたため、真理はそれまで拓馬とともに頼まれた裏庭の倉庫掃除をすることにした。

もさもさに雑草が生えている裏庭をどうにかするほうが先じゃないかとも思ったが、精域から戻ってくる時に姿が隠れて便利なので悩ましい。

倉庫の扉を開くと、ずんぐりむっくりぽってぽての司猫(すねこ)ぬいぐるみが待ち構えていた。

(そういえば一旦預ける形で倉庫の中に送ったんだっけ)

希羽も忘れているのだろう。渡しにいこうとそれに手を伸ばした時、身体が押し除けられた。

拓馬である。

焦った声色が倉庫内に響く。

(もり)! なんでこんなところに!? 他人様の家には入るなって前言っ……」

ここで拓馬がぬいぐるみを持ち上げ、フリーズした。

「…………」

「…………」

気まずい空間が生まれる。

拓馬は背中を向けているが、耳が真っ赤である。なぜかこっちまで恥ずかしくなってしまう。

彼はスッとぬいぐるみを下ろし、振り返らずに言った。

「……忘れてくれねぇ?」

「……ど、努力するよ。……ね、猫飼ってるの? 坂井くん」

今の口ぶりからおそらく飼い猫と間違えたのだろう。

拓馬は「そ」と肯定した。

「姉貴が連れてきた猫でさ。……急に帰ってきたと思ったら『あんたが世話しなさい』って押しつけてまたどっか行くし……まぁ、結果的に今家で話せる唯一の存在になったからいいんだけど」

拓馬の姉。彼が一番気を許している人であり、だいぶ前から家を出て自由にしていることだけ知っている。

「坂井くんのお姉さん、本当に自由だね……猫さんの写真とかないの?」

「ん、これが守」

ズボンのポケットからスマートフォンを取り出した拓馬は、写真のデータを開いて画面を見せてくれる。

並んでいる写真の列には、ぬいぐるみとそっくりのかわいらしい司猫。

そしてもう一匹、ふてぶてしい顔をした不機嫌にも見える司猫がいた。

「2匹飼ってるんだ」

「いや、どっちも同じ守。ぬいぐるみらしいのが他所行きの面な。あの人の前とかではこっちになるんだぜ」

なるほどと思った。拓馬母は騙されているらしい。

「へぇぇ……さすが猫。猫被りだ」

つまり普段はもう一方のふてぶてしい顔なのだろう。

どこか見覚えがあるのを感じて思い出す。

(そっか、希羽くんの持ってたキーホルダーの猫さんに似てるんだ)

今は拓馬の手に渡ったキーホルダー。もしかしたら飼い猫に似ているから欲しかったのだろうか。そう思うとかわいらしい。

「なに笑ってんだよ?」

「いえなんでも!」

そこからふたりして蜘蛛の巣取りや雑巾がけを行って、時間は9時半。

ちょうどよく終わった。

「とりあえずこのぬいぐるみは持っていこうかな」

ぬいぐるみを持って倉庫を出る。

「え? それいんの?」

「希羽くんが橋本先輩からもらったのを忘れてるみたいだからね!」

「なるほど……おかげで恥かいたぜ……」

拓馬が忌々し気に呟いたところで、話の当人がひょっこりと現れた。

「なにが恥なんだ?」

「あ、希羽くん。はいこれ、忘れてたでしょ」

「癒やしっ!!」

真理がぬいぐるみを差し出すと、希羽は目を煌めかせて受け取った。そのまま癒やし癒やしとぬいぐるみを抱きしめたかと思えば、はっとしてぶんぶんと大きく首を左右に振った。

「いや違う! 拓馬、電球の交換を頼まれた。僕では力不足だから代わってくれ」

「あんたちっちゃいですもんねぇ。了解」

拓馬は裏庭の草を掻き分けて去っていく。

「よし、私も羽衣のとこに行ってくるよ」

「僕も行く」

「ええええっ!?」

「生依が不安だから、途中までな」

どうやら送ってくれるらしい。

「あっ。そ、そうだよね……」

無駄に驚いた自分が恥ずかしくなった。

「真理。君なら察していると思うが、生依は引力の黎瀬だ。昨日の話を聞くにあいつはだいぶ君を舐めているようだが……気をつけてほしい。また帰る時に連絡してくれ」

「あ、やっぱりそうなんだね。ありがとうー!」

羽衣の家が見えたところで、希羽は戻っていった。

このまま来てくれないものかと思ったが、今連れていけたとしても上手くいかないだろう。

インターフォンを押すと、羽衣の母がそのまドアを開けて出てきた。

「真理ちゃんいらっしゃい〜」

いつものほほんとした笑顔を見せてくれる。

持ってこようとしていたらしいお茶とお菓子の乗ったお盆を受け取って、羽衣の部屋へと入った。

「羽衣! 来たよ!」

「ノックしろよ」

「いや来るってわかってるからいいかと……はい」

羽衣は相変わらず勉強机の傍らに置かれたキャスターつきの椅子に座っていた。

真理は羽衣の勉強机にお盆を置いて、いつも座る椅子に腰掛ける。

さて、どう切り出そうかと考え始めた瞬間に羽衣は口を開いた。

「……途中で口を挟むなよ。それと、あいつから聞いた話と被っててもスルーしとけ」

真理は静かにうなずく。

羽衣は大きく息をつくと、厳重に縛った物を解くように話し出した。

俺の生まれは星名村っていう田舎の小せぇ村でさ。両親と……兄貴の4人で暮らしてたんだ。

親父はすんごい子煩悩。母親はなんつーか親父が一番って感じの人だった。兄貴は……多分、お前が見てるのと同じじゃねぇかな。常に癒やしを求める奴。よくくっついてきて鬱陶しかった思い出しかねぇ。

親父はこの村が嫌いみたいで、いつか家族全員で出て行く計画をしてた。

正直俺もやたらとスピリチュアルな話が多いこの村が好きじゃなかったから、出て行くのは賛成だったわ。

『村の奴らの話? レイセ? シジュツ? あー。あいつらの空想だよ、空想。大体、見たことあるのか?』

って親父も言ってたし、実際見たことなかったしな。そういうのが好きな連中の集まった村だったみてぇ。

でも、その親父がしつけぇくらい言って聞かせてきた言葉もわりとスピリチュアルだったんだけどな。

『いいか羽衣。いつか村を出て行く時は、いつもの門じゃなくて、家の側にある門から出て真っ直ぐ突き進むんだ。道がなかろうが真っ直ぐだぞ。そしたら繋がる』

ってさ。

繋がるってなんだよって話。

まぁ当時はそんなに難しく考えてなかったんだけどさ。ふぅんくらいの気持ちだった。

事件があったのは、4歳になる誕生日だった。

夜中、なんか目が覚めた。いつも横にいる兄貴の気配がなかったからかもしれない。

そしたら兄貴どころか両親の姿もなかった。

どこ行ったんだと思ってたら、窓からすごい光が見えた。

なんか嫌な予感がした。

夜遅くに外に出ないという決まりを無視して家を飛び出て。

とりあえずぐるりと一周しようと家の裏へと回った時だ。

血塗れの刀を持った村長が、兄貴を抱えて立っていた。

兄貴の被ってたヘアバンドも、飛び散ったみたいな赤が着いてた。黄緑なのもあって、すごく目立ってて。

「羽衣……」

その時の兄貴の目でわかった。

両親の姿がない理由も、村長の刀が赤い理由も。

──兄貴は人質に取られたんだ。

そのあとは村長に無理矢理連れられる形で自宅に帰ってきて、夜が明けるまでふたり一緒の布団にくるまって震えてた。

(消えろ。消えろ。こんなの嘘だ。消えちまえ)

そんなこと願ってたからなのか、朝になったら兄貴はなにも覚えてなかった。

よかった。

そう安心したところで。

「今日から私と暮らしてもらう」

村長から、地獄の日々の始まりが告げられた。

奴が人殺しだなんて言えば兄貴が記憶を思い出しちまうかもしれない。

そしたら、下手をすれば兄貴が壊れる。

……俺はこの3人暮らしを受け入れるしかなかった。

自宅に人殺しが住む生活。

しかもそいつが殺したのは俺の両親で、兄貴を人質にとるなんて最悪な手段を取った奴。

兄貴は両親が死んだのは薄々察したみたいだった。けど俺に訊ねてくることはなかったし、俺も話さなかった。

いつか、なにもかもが崩れて消えるような気がして怖かった。

でも、その時はいつも親父がしつこく言ってた言葉を思い出してた。

もう少し、もう少し大きくなったら……親父の計画通りに、兄貴と一緒にこの村から出て行ってやる。

その思いで耐えてきた。

そんな生活が7年あって……ちょうど8年目を迎えようとしていた日。

忌々しいことにあれは俺達の誕生日の出来事だったから、日付けはしっかり覚えてた。

村の奴らが騒がしかった。

いつも変なことで盛り上がる連中の言葉なんて本気にしてなかったけど、その中の。

「光ってた! すごい光の柱が出てた!」

嫌な予感がした。

今すぐ、ここから離れなければ。

既にこの暮らしに限界を感じていたこともあって、俺は思った。

親父の計画を実行しよう。

そのために。

──俺があのジジイを殺す。

その夜。

台所から、一番大きな包丁を選んだ。

音を立てずに、ゆっくりと進む。

縁側に座る老人の背中が見える。

大きく振り上げ。

その背目掛けて。

振り下ろした。

……はずだったのに……。

目の前には、兄貴がいた。

包丁は兄貴の左頬を削るに終わる。

なにをしているんだとは、言われなかった。

多分、わかっていたんだと思う。

「そいつは親父達を殺したんだぞっ!!」

ずっと言わずにいたことを思わず叫んだ。

けれど兄貴は冷静に。

「……知っている」

そう言った。

知っているのに、止めるのか。

それとも、止めてくれたのか。

老人はただこちらを見ているだけでなにもしてこない。

「……もう出ようぜ、こんなとこ。もうまっぴらだ」

兄貴に本題を告げた。

別にこいつを殺せなくてもいい。

兄貴が止めるなら仕方ねぇ。

兄貴がいてくれるなら、それでいい。

そう思っていたのに。

「僕は、行かない」

それは落ち着いたら声音で。

淡々としていた。

「……は?」

溢れた声にも、兄貴はぶれなかった。

そこで悟った。

ああ、負けたんだ。俺は、このジジイに。

「……お前は、そいつを取るのかよ……」

片割れの俺よりも。人殺しの老人を。

兄貴はなにも言わなかった。

ただ、視線だけは逸らされることなく真っ直ぐに向けられている。

頬から流れる血がひとつ、顎を伝って落ちていった。

なら、いい。

もう、いい。

俺は包丁から手を離した。

畳に赤を纏ったそれが落ちるのを尻目に、用意していた荷物をふんだくる。

そして、そのまま親父の言葉の通りに出て行った。

しばらく林が続いたが、ある程度まで進んだところで光に包まれたような気がした。

気がしたというのは、溢れてくるもので目が使い物にならなかったからだ。

「そしたらどっかのパーキングエリアにいて、たまたま来てた今の両親に拾われた。……だから、俺とあいつのことは放っておけよ」

そこまで言い切ってから、羽衣は背伸びをした。どこか恥ずかしそうに「あー、自分語りとかきめぇ」とぼやいている。

「…………」

真理は目を閉じた。

(待って待って情報が、情報が多いよ!! せ、整理、整理しなきゃ……!)

まずは羽衣達の父親が言い聞かせていたことは繋ぎ道のことだろう。

おそらく人間として生きるために精域を出るつもりでいたのだ。

生贄になるのはごめんだったのかもしれない。

人間として生きるつもりのため、あえて羽衣に黎瀬のことを教えなかったのだろう。

そのおかげか現実主義な羽衣の無自覚な司術は、今人間として暮らす上でうまく作用している。昨日のように。

精域に住んでいたにも関わらず司術などを見たことがないのも納得だ。信じていないものを無意識に消し飛ばしてしまうのだから。

そして事件の状況。

羽衣の話では家の裏だと言っていたから、真理が希羽と会った場所ではない。

希羽は老人を儀式に乗じて殺すつもりだったため、あの場所に陣があるはずだ。

つまりこの事件のものは陣を使った正式な儀式ではなく、13年前や生依が行っていたものと同じ祈念刀によるものだろう。

計画に気づいた老人が、無理矢理祈念呪の儀を行ったというところだろうか。

(それよりも問題は、希羽くんを人質にとったってところだよね……)

それが本当なら、希羽の目的は老人を殺すだけでなく……。

(ほんとに『お前を殺して俺も死ぬ』をやるつもりなんじゃ……)

秋晴村で保留していた考えが、ここで蘇ってくる。

祈念呪の儀式が眉唾物ではないと知っている希羽。

老人を庇ったのも、羽衣の誘いを断ったのも、復讐と儀式の両立をするためなのではないだろうか。

頬の傷について、希羽は言っていた。誕生日に妹からもらったと。

おそらく無欲の司力を込めて傷つけられたため、治癒が作用せず綺麗に治らなかったのだろう。

それはともかく、彼は『もらった』と言っている。

これは自分が人質になってしまったことについて、裁きを受けた気持ちでいるという意味ではないだろうか。

(……さすがに考えすぎ、かなぁ?)

しかし、もし希羽の目的が真理の予想通りだとしたら。

単に老人を捕まえるだけではまずいのではないか。

彼の自殺を止めるのならば、羽衣の協力は必須と言えるだろう。

ただ、羽衣を説得するには祈念呪の儀を信じてもらわなければ始まらない。

それがないと、希羽の行動の真意を証明できないからだ。

今ここで「希羽を止めてほしい」と言っても無駄なのは明白である。

羽衣は希羽が老人を選んだと思っているのだから。

希羽が羽衣を大切に思っているのは確実だが、それならばなぜ一緒にきてくれなかったんだとなる。

そこで祈念呪の儀のためだと言っても意味不明だと蹴られてお終いだ。

まずは祈念呪とその儀式を理解してもらわなければ。

「ねぇ羽衣。ちょっと訊きたいんだけど……ご両親のご遺体とかって……」

おそらく儀式で送られたのなら、跡形もなく消え去っているはずだ。

「……さぁな。……どっかに埋めたんじゃねぇの? 作った墓にはなんも入ってねぇよ。変なこと訊くなお前」

羽衣は特に疑問を抱いていないらしい。

光とご両親の死は結びついていないのだ。

(そこから繋げられると思ったんだけど……)

まぁそうなるかと真理は思った。

ここはもう直接訊いてみよう。

「じゃあ、祈念呪って知ってる?」

羽衣はその言葉の一端を聞いたところから顔を歪め始める。

まさに苦虫を噛み潰したような顔だ。

「……あの野郎が兄貴のことそう呼んでた。村の奴らもだ。どいつもこいつも変なあだ名で呼びやがって」

どうやら祈念呪というワードは知っているらしい。

父親のことは祈念呪と呼んでいなかったのかと疑問に思ったが、父親は祈念呪と呼ぶことすら拒否していたのかもしれない。

傷口に触れるように、恐る恐る問う。

「ね、ねぇ羽衣……も、もし祈念呪が……生贄だったら、どうする?」

「はぁぁ?!」

「ひぃぃごめんなさいなんでもな」

「それだったらやっぱあそこはただのやべぇ村じゃねぇか!! なおさら一緒に来いって話だろ!? 意味わかんねぇ!!」

「ごもっともぉぉ!!」

真理だって黎瀬や精域の存在を知らなければそう思うだろう。

あわよくば「どういうことだよ?」という返事を期待していたのだが、さすがに無理があった。

「お前、さっきからなに言ってんだよ……暑さでやらてれんじゃねぇの?」

羽衣は怒るというよりは困惑している様子だ。

そのまま押し付けられた麦茶を呷る。

……駄目だこれは。

そもそもの黎瀬関連を信じてもらわなければどうしようもない。

司術のひとつでも見せられればいいのだが。

しかし、最も精霊に近い者と言われている生依が駄目ではどうしろというのか。

真理は肩を落とした。

とりあえず、あの老人を捕まえるのが最優先。そしてあわよくば儀式自体をしなくてすむような状況にしたい。

そうすれば、儀式で殺すという希羽の方法を物理的に止めることは可能なのだから。

そう自分に言い聞かせて、真理は話題を変えた。

「そ、そうだ羽衣! 昨日のあれと知り合いなんだよね?」

羽衣は目を吊り上げた。

「だからちげぇっつっただろ!? あれは俺が泊めた奴らの連れだっただけなんだよ!」

「泊めた?」

「そ。俺が村を出て今の両親に拾われて、半年くらいだったっけか。まだこの町に引っ越す前だな。赤ん坊抱えた高校生くらいの兄ちゃんが縮こまって震えてたんだよ。……他人事とは思えなかったから、家に連れて帰った」

尻すぼみになる声。

精域を出た時の自分と重ねてしまったのだろうと悟った。

「その人たちってどんな人だった?」

「別に普通。じゃなかったら家に呼んでねぇし……強いて言うなら、おまじないをしたがってたことか?」

「どういうこと?」

「知らねぇよ……なんか帰る目処がたった時にお礼に加護を与えよう! とかノリノリで言い出したかと思ったら……渡せねぇって泣き出してさ……。さては精霊の加護を信じてねぇな! ならおまじないなら信じてくれっか? って親子共々うるうるした目で訴えてきて。じゃあ信じてやっからやってみろよって言ったら、俺の手握って満足して帰ってった」

羽衣は未だによくわからないと言いたげだ。

──加護。

(……たしか……)

精霊が与えることのできる恩恵。

その昔、精霊とその実子である初代黎瀬の民のみ扱えたと聞いたことがある。

『嘘でしょ……君ってここまでだった?』

『あーーもうっ叶夜(きょうや)くんの馬鹿っっ!!』

昨夜の生依の台詞が蘇る。

もしかして。

「う、羽衣! その親子の名前って覚えてる?」

「さすがに覚えてるわ。……たしか、兄ちゃんが叶夜で、赤ん坊が夜尋(やひろ)だったはずだけど」

真理の予想は当たった。

彼らの加護が、司力を強化するようなもので、羽衣の司力を強大なものにしているのだ。

生依の態度から、羽衣の司力を上回れば、祈念刀は使えるようだった。

司術だって、羽衣のものを上回れば発動可能なのではないだろうか。

つまり。

(その親子に協力してもらえば、羽衣に司術を見せることができるんじゃ……!)

羽衣説得の兆しが見えた。

「……で、あれとは迎えに来た時にちょっと話しただけ。僕らのことは他言すんなって釘刺された」

羽衣が話を戻してくれる。

「……今話しちゃったよ?」

「通報してねぇだけありがてぇだろ」

「……そうだね。で、その親子って今どこにいるかとかわかる!?」

「昨日のあれについてはもうどうでもいいのかよ!? いや訊かれてもこれ以上知らねぇけどさ……叶夜は知らねぇけど、夜尋っぽいのならこの町にいるな。小学校通うとこ見た」

「ほんと!?」

「本人かはわかんねぇよ? 見た目がなんとなく似てて名前も同じだったから、夜尋だと思っただけ」

「え、声かけたりしなかったの?」

羽衣は呆れたように目を細める。

「お前……叶夜ならまだしも、赤ん坊だった夜尋が俺のことなんざ覚えてるわけねぇだろ? 『夜尋じゃねぇか。大きくなったなー!』なんて言ってみろよ。防犯ブザー鳴らされて終わるわ」

「た、たしかに……」

想像してみてもただの不審者だ。

「ってか実歌のが詳しいんじゃねぇの? 集団登校で一緒に歩いてんの見たし」

「えっっ!? 本当!?」

思ってもみない情報に真理は椅子から立ち上がった。

「お、おう。近所なんじゃねぇの。知らねぇけど……なんでそんなに親子のほうが気になるんだよおかしくねぇ?」

真理のあまりの反応から出たであろう羽衣の疑問に答える気はなかった。どうせ今言っても通じないからだ。

「ありがとう羽衣! 今から帰って訊いてみるよ!!」

羽衣の部屋のドアを開け、ツルツルのフローリングを靴下で滑るように出ていった。

「てめぇマジで聞くだけ聞いて帰るのかよ! あいつのことはもう振ってくんなよ!?」

それは無理だと思う!

真理は心の中で返答した。

高揚する気持ちで自宅への道を駆ける。

しかし、それを視認した途端にその心は急冷された。

カーブミラーに映るくねった青竹色の髪と、手招きするような手の動きを。

昨日の考察がよぎる。

咄嗟に走るスピードを速めて、現時点から全力で離れる。

直後。

後ろでなにかの鳴き声が。

警戒しつつも素早く振り返れば、雀が数羽地に伏せていた。

「あーれま。避けられちゃった」

やはり今の手招きは司術発動の条件だったようだ。

雀は運悪く範囲内を飛んでいたのだろう。

思っていた通り、範囲はそこまで広くない。

(これなら……戦える!)

そう確信を得た瞬間。

「さすがに舐めすぎたかぁ。あーあ、こんなことなら最初からこうしておけばよかった。……こっちおいでよ」

生依が再び手招きをする。

それに応えるように、真理は強い力で引っ張られた。

まるで掃除機にかけられる埃のごとく、身体全体が一気に吸引される。

引き寄せられる先には、祈念刀を構えた生依。

希羽との会話の欠片が蘇る。

──生依は引力の黎瀬。

地球の引力を強めるものだと思っていたが、とんだ勘違いだ。

希羽の金銭欲もそうだったじゃないか。

黎瀬の民としての、言葉の概念。

人間の辞書の意味に加え、一方的に引き寄せる力も含まれての『引力』なのだ。

わかったところで、もう遅い。

桃色の光を纏った刀身が迫る。

(終わった)

瞬間。

なにかがぶつかる硬い音が響いた。

祈念刀が生依の手から遠ざかっていく。

赤い雫を散らしながら。

道路に転がる祈念刀と同時に、なにか小さな物も一緒に着地した。硬貨だ。

引き寄せる力が消えて、真理は生依の手前で地面へ落ちる。

即座に飛び退ってできたスペースに、よく知る小柄の男性が降り立った。

「希羽くん!」

その姿は秋晴村で見た黒衣に紫のケープ。

黎装だ。

「ちょっと痛いんだけどぉ!?」

道路に転がる祈念刀を司術で引き寄せて回収する生依。

その手には風穴が開いていており、ダラダラと血が流れている。

「癒やしに仇なす君が悪い」

「言うと思ったぁ! やっぱり癒やしの坊やだねぇ」

ふたりが話している間に手の傷は塞がっていく。

希羽の言っていた精霊分の高い黎瀬の民ができる自己再生だろう。

「希羽くん、どうして」

「君の金銭欲が近づく気配がしたからな。……連絡するのを忘れていただろう」

振り返らずに静かに告げられる。

「……ご、ごめんなさい」

「僕もすまない。生依の司力を黎瀬の感覚で伝えてしまった」

人間の辞書と意味が異なることを言っているのだろう。

希羽は精域育ちの黎瀬の民だ。無理もない。

背を向けている彼に首を左右に振るという意味のない返しをしていると、生依が声を上げた。

「もぉー! 兄妹揃ってそいつのナイト様してるわけぇ〜?? 鬱陶しぃ。ってか精霊石で視てたけど、君ってぜにぜにがねがね言ってるの? 昔から?? 僕知らなかったんだけど」

「ぜにぜには言っていないぞ」

希羽は彼と同僚のような関係だと言っていたから、生依は普段の希羽を見たことがなかったのだろう。

それはともかく、真理は憎い相手が自分と同じ言葉選びをしたことに苛立ちを覚えた。

「それで? ほんとに退かないつもり? 癒やしの坊や」

「ああ」

「そっかぁー。ならしょうがないね?」

生依はにっこりと笑い。

「ちょっと少年漫画しよっか」

希羽に向けて祈念刀を向け、もう片方の手を招くように動かした。

「!」

途端、希羽の身体は勢いよく生依の方へ。生依の持つ祈念刀へと引き寄せられる。

希羽は取り乱すことなく、冷静に片手を自身の胸へ触れた。

銭化(せんげ)

彼の姿は見覚えのある刀へと変貌し、引き寄せられる力に従ったまま、勢いよく生依目がけて進む。

生依は刃先が迫るギリギリで横に飛び退いた。そこで刀は希羽へと戻り、避けた生依の腹部へ足を突き刺した。

その足先はたしかに彼の腹に食い込んだものの、少しずれた左脇腹だったこともあり、あまりダメージは入っていないようだった。

「ちびっこは長さが足りないからしょうがないよねぇー! でも普通に痛いからっ!!」

生依はお返しとばかりに拳を振り上げ、同時に希羽は再び引き寄せられた。

拳がその小さな身体に打ち込まれる。

みぞおちど真ん中だ。

「っ……! せ、んげ……」

希羽は蹲ってげほげほと大きく咳をしている。

引かれた力もあいまって、拳の威力は跳ね上がっているのだろう。

「希羽くん!!」

「ねぇねぇ僕にも言ってみせてよがーねがねってさぁ! 僕は癒やしじゃないってことかな癒やしの坊やぁ!! ……っっ!」

生依は突如瞠目し、みぞおちに手を当て膝を折る。そのまま耐えようとしたものの、ゆっくりと崩れ落ちた。

(……どういうこと?)

さっき受けたところが急に痛くなったのだろうか。

しかし、生依は今希羽が受けたのと同じ箇所を抑えて倒れた。

「経験が極めて濃いものは、現実にできる……銭現(せんげん)。タイミングが難しいから、ほとんど幻覚のほうの銭幻になってしまうがな」

真理の考えを推測したのか、希羽はこちらを見て告げた。

そこで思い出す。

『僕の銭幻は経験に比例する。経験が濃いものほど現に近くなる』

経験が濃いというのは量だけだと思っていたが、もうひとつあるじゃないか。

──時間だ。

経験したばかりのものも、濃いと言えるのではないだろうか。

希羽の言うタイミングという単語から、攻撃を受けたのと間隔を空けずに唱えることで、幻覚を現実にまで引き上げることができるので確定だろう。

つまり今の生依は自分が仕掛けた技を自分もそのまま喰らったような状態なわけだ。しかも不意打ちで。

殴られることをわかって受けるか否かの違いは大きいんだなと感じた。

「……この人、どうするの?」

正直このまま殴る蹴るしたい気分だが、無抵抗の相手には気が引ける。

希羽は逡巡ののち。

「とりあえず拘束するか」

そう言って近づいた時だ。

地に伏せていた生依が、司術で希羽を地面へ押し付けた。

「希羽くんっ!」

生依は司術を解くと同時に、仰向けに転がる希羽に跨る。

「残念でした……ちょっとかけるのが遅かったねぇ。痛みしか来なかったよ。いや痛みしかとか言っといてなんだけど普通につらいからね? ってかめっさくそ痛かったんだけどね?? これだから君とは戦いたくないんだよ面倒くさいから」

希羽は顔を崩さず、平坦に返す。

「万が一のために今までで一番堪えた痛みも添えたんだがな」

「銭現と銭幻同時がけしてたの君!? まぁできるか。ここ、あそこより人だらけだもんねぇ。君にとっちゃあ司力蓄え放題だろうし」

そのまま祈念刀を突き刺そうと振り下ろした腕は、「銭化」という囁きと同時に停止した。

「君じゃあ癒されないがね」

どうだ、リクエストに応えたぞと言わんばかりの笑みで彼は言った。

その姿はボサボサの銀髪で小さな三つ編みをサイドにひとつ下げた、生依よりも少し体格のよい男性へと変貌していた。

生依は僅かに瞳と振るわせるが、すぐさま嘲笑を浮かべる。

「君、そういうことするんだ? ……なに、それなら僕がやれないとでも思ってるの?」

希羽は、銀髪から覗く紫の瞳を細めた。

乗り上げられたまま上体を起こし、彼の耳元へ顔をやる。

「────」

「…………!」

祈念刀の桃色が消えた。

しばしの静寂のなか、希羽の姿が緩やかに戻っていく。

生依はゆっくりと立ち上がり、希羽を解放した。

そして癖毛をがしがしと掻いた。

「あーー! やだやだ仕掛け損じゃんお腹めっさ痛いんだけど!!」

「それは僕もだ」

「僕は君に蹴られた分と君の司術でもっと痛いんだよ!!」

掻くのをやめ、癖毛の先を指に絡める生依。

希羽はその瞳をまっすぐに見つめた。

「生依」

「……なにさ」

「昨日潰した卵代を払え。176円だ」

(無理じゃないかな!?)

いきなりなにを言い出すのだろう。やめておきなよと真理が声をかける前に。

「しょうがないなぁ。特別だよぉ?」

(払うんかいっ!!)

さっきの緊迫した空気はどこへやら。

生依が「細かいのないけどお釣りあるの?」と希羽の差し出した手に500円を乗せ、希羽は「大丈夫だ」と財布からお釣りを握り取り、拳のまま生依が開いて待ち構えていた財布へ押し込んだ。

「ちょろまかしてたら潰すよ?」

「そこは安心しろ。……早く行ったほうがいい」

「……そうさせてもらうよ。僕が消えたら幻惑の司術も解けるから、君もさっさとそれ解きな? じゃあね、癒やしの坊や! と、『希羽くん』言うだけでなにもしてない戦闘狂(笑)ちゃん」

生依は耳の精霊石を光らせ転移する。

消えていく生依に殴りかかろうとしたが、希羽に止められた。

「……少年漫画は読むに限るな」

彼はうんざりといった様子でぼやくと、ケープの内側から黄緑色のヘアバンドを取り出し、黎装を解いて被る。

そして道路に落ちたままの硬貨を拾い上げた。

秋晴村でのように引き寄せないのは、硬貨に込められた司力が尽きているためだろう。

(さっき、なにを言ったんだろう……)

希羽が生依に告げた内容はわからないが、真理にはひとつわかったことがある。

──生依は希羽を送るつもりがないということだ。

「ねぇ、希羽くん。……別に庇うとかじゃないけど……あいつ、希羽くんを送るつもりなんてなかったんじゃないかな?」

希羽が目を丸くする。

考えもしなかったという顔だ。

「だって希羽くんが蹴りを入れたあと、拳で殴ってきたじゃない? 送る気なら問答無用で祈念刀を突き刺すよね?」

最初に祈念刀を構えて引き寄せた時も、まるで回避してくれることがわかっているうえという印象だった。

生依が希羽へかけた誘い文句。

『ちょっと少年漫画しよっか』

その言葉の通り、まるで遊んでいるような。

生依の目的はあくまで真理であり、希羽に関しては邪魔ができないように行動不能にするだけのつもりだったのかもしれない。

「生依は優先順位が明確な奴だからな。同僚だろうが、必要であれば殺すはずだが……あいつの考えていることはわからないな」

「だよね……」

あいつに訊きたいことが増えるばかりだ。

「ただいま実歌! ちょっと訊きたいんだけど!!」

帰宅早々、リビングにいる妹へと話しかける。

「お姉ちゃん。まずは手洗いなよ」

「夜尋くんって知ってる?」

冷静に嗜めてきた顔が、その名前を聞いて驚愕へと変わった。

「お姉ちゃんまさか夜尋くんに戦いを挑もうとしてるの!? やめてよ夜尋くんは小学3年生だよ!?」

えっ! 夜尋くんって強いの!? と思いつつも、誤解だと伝えようと口を開く。

しかし、その口から音を発する前に目を鋭くした妹が続けて言い放った。

「それに先月からお父さんが倒れて大変なんだから! そっとしておいてあげてよ!! 喧嘩なんて仕掛けたら許さないからね!?」

わかったらさっさと手洗って! と洗面所へ突き飛ばされた。

夜尋の父親は叶夜。

叶夜は生依の連れ。

殺人事件が始まったのは、ひと月前。

叶夜が倒れたのも、ひと月前。

(偶然じゃ、ないよね)

生依の真実への手がかりに驚きつつも、真理は手洗いうがいを済ませるのだった。

夕食後。

家族はリビングでくつろいでおり、拓馬は風呂。

再び夜尋について妹に訊ねようとすると、警戒してかギロリと睨まれた。

(これは、日を改めないと駄目かも……)

星錬の探索から帰ってからもう一度伺おう。

皿洗いをしている希羽に、真理はそっと近づいた。

「どうした真理。手伝ってくれるのか?」

「えっ。まぁ、うん!」

なんとなく近づいただけなのだが、そういうわけにもいかなくなった。

「そうか。なら洗い終わったら拭いてほしいがね」

それだけ言うと希羽は残り僅かの汚れた食器に手をつけていく。

真理はそんな希羽を見て、昼間の羽衣の話を思い出した。

両親を送るために、人質にされた希羽。

(希羽くんの復讐には、自分も含まれてるの?)

なんて訊けるはずもなく。

遠回りに話して様子を見ようと試みた。

「羽衣から聞いたよ。……本当は家族みんなで精域からこっちに来るつもりだったって」

希羽が洗っていたコップが、泡だらけの手から滑って落ちた。

幸いシンクまでの距離は近かったので、割れることはなく転がる。

彼はコップをもう一度手に取って洗うと、泡を纏った食器達の仲間に入れた。

そして水に浸かっていた最後の食器をスポンジで撫でると、そこからひとつずつすすいでいった。

「希羽くん達のご両親。人間として暮らしていくつもりだったから、黎瀬の話とかしなかったんだね。希羽くんはやっぱり自力で気づいた感じ?」

話しながらも、真理は希羽の洗った食器を拭いてそのまま棚へと戻していく。

希羽からの返事はない。

(もしかしてまともに聞こえなかったのかな? やっぱ洗い物中に話さなければよかった……)

脳内反省会を開いていると、頭の中にノックがされた。

「そうか。知らなかった」

「……え?」

「すまない真理。ちょっと洗剤がかかったみたいだ……顔を洗ってくるがね」

そう言って静かに洗面所へと向かう希羽。

なんだか様子がおかしい気がして、真理は忍び足で後を追った。

洗面所はスライド式の扉なので、音を立てずに開くことができる。

真理は少しだけ扉を滑らせた。

希羽は言った通り顔を洗っていたようだ。

洗面台に両手をつき、水の溜まった洗面器に濡れた顔を向けている。

彼がどんな表情かは髪に遮られてよく見えない。

ただ、そこから溢れる声は拾えた。

──本当に、余計なことしかしないなお前は。

聞いている耳が底冷えしそうな声だった。

2023.2.1 初出