第9章
突然身体全体が押し潰されるような感覚とともに地面へと俯せになる。
なんだこの感覚は。
まるで一気に重力が強まったような。
思わず手放してしまった袋の卵も落下とこの力で全滅だ。
「あっけないねぇ? いくら戦うのが好きって言っても所詮は人間だし、そりゃそっか」
降ってくる声。
まったく持ち上がらない頭を声の方へなんとか傾け、目を全力で上にやる。
若い男だ。
黒いパーカーのフードを被り、黒いマスクをしている。そして黒のズボンに黒いスニーカー。
報道されている殺人犯の情報と類似するが、これだけでは断定できない。
しかし、青竹色の曲がりくねった髪に黄緑色の瞳というその見た目と、今かけられている司術で黎瀬の民だと確信する。
「幻惑の司術もかけたし誰も気づかないよ。悔しいだろうけど、僕は君と違って戦いが目的じゃないからさぁ。このままなにもできずに死んでくれる?」
そう言って男はフードを取った。癖のある髪はミディアムのアンシンメトリーで、左耳は隠れているが、右耳の方の髪は短い。
その見えている右耳にあるエメラルドグリーンの石が月明かりを受けて煌めいた。
『目撃者によりますと、顔はパーカーのフードとマスクに隠れて見えなかったが、隙間からエメラルドグリーンのピアスが光るのが見えたとのことです』
脳内でテレビの報道が蘇る。
こいつだ。
真理は断定した。
「ずーーっと殺したかったのに、条件揃わなくてやきもきしてたんだよ? 精域巡り始めたってのに、3年経ってもなにも知らないんだもんこっちはびっくりだよ! ……けど」
男は真理の目の前にしゃがみ込むと、ニタァと笑った。
「聞いちゃったよねぇ? 知っちゃったよねぇ? なら殺してもいいよねぇ?」
聞いた。知った。
その言葉で真っ先に思い当たるのはひとつだけだ。
──祈念呪の儀。
「私は、人間だよ」
思いつくまま答える。
これがわからなければ祈念呪関係ではないということだ。
男はくつくつと笑う。
陰口で盛り上がる集団のような嫌な笑い方だった。
「そうだね? だからなに? 僕が精域を守るため、せっせと生贄を捧げる執行者だとでも思ってるの? 僕言ったじゃん死んでくれる? って。でも死ぬなら儀式で死んでくれなきゃもったいないじゃん」
拓馬のようなパターンを考慮しているということだろう。
やはり祈念呪関係だった。
(刀を持っているようには見えないけど)
そもそも祈念刀がなければ祈念呪の儀にはならない。ただの殺人だ。
その考えを察したのか、男は言った。
「持ってるに決まってるじゃん馬鹿なの?」
パーカーのポケットから短刀が取り出される。その刀身の輪郭は桃色に淡く光っていた。
祈念刀は儀式としての使用意志を込めると淡く光るという、昨日の説明会のあとに補足として聞いた特徴と類似する。
つまりこの男がひと月前から行っている殺人は全て祈念呪の儀なのだろう。
真理の目つきが無意識に鋭くなる。
男はそんな視線はなんてことないという調子で。
「なるべく屑を選んだつもりだよ? ま、僕の独断と偏見なんだけどね」
とか言っているが本人は執行者のつもりはないらしい。わからない男だ。いや、わかりたくもないが。
しかし、先ほどの発言。
あれは真理自身に思うところがあるようだった。
けれど、真理はこの男に覚えなどかけらもない。
男はそんな真理の考えなど手に取るようにわかるといった様子で、ため息を吐いた。
心底呆れているといった相貌だ。
「君さぁ……今まで自分の家族の死の真相を調べたいとか思わなかったわけぇ? やっと精域行けるようになってやることといえば、喧嘩三昧で仇捜しがついでってなにさ? ふざけてるの? 馬鹿なの? あー、馬鹿か。せっかく手に入れた新しい家族も間接的に危険にさらしてるんだもんね。家族の皆さんかわいそぉー。どうでもいいけど」
調べていなかったわけではない。
突然現れた殺人犯にどうしてこんなことを言われなければならないのだろうか。
さきほどからなんとか動けないか試しているが、押さえつけられた身体はほとんど動かない。
男は祈念刀を持つのとは逆の手で人差し指を立てた。
「なにもできずに死んでほしいけど、なにも知らずに死なれるのはつまらないから、ひとつだけ教えてあげるよ。おじいちゃん可哀想だし。あんだけ殺しておいてって感じだけど、冤罪は冤罪だしねぇ」
「冤、罪……?」
男の口の端がゆっくりと吊り上がる。
「13年前、君のお母さんを殺したのは僕だよ」
息が止まった。
こいつはなにを言っているんだ。
驚愕に目が見開かれる。
同時にカァッと頭が熱くなるのを感じた。
男はおどけたように空いた手をパッと開く。
「あれぇ? なに怒ってるのさ。もう殺したいとは思ってないとか言ってなかったっけぇ?」
男から見て、今の自分はよほど酷い顔をしているらしい。
射殺さんばかりに睨みつける。
今なら希羽の気持ちがよりわかる気がした。
そしてさっきからこいつはどこかで見ていましたという言動ばかりなのが腹立たしさに拍車をかける。
それすら見透かしているのか、男は告げる。
「殺したい相手のことは知っておかないとねぇ。見聞きしてたよずっと。君のお父さんの精霊石でね?」
人差し指で自身の右の耳たぶを揺らす。「あ、教えるのふたつになっちゃった」と零しながら、祈念刀を構えた。
「じゃ、その程度だったってことで!」
祈念刀が振り下ろされる。
真理の首へとまっすぐに。
(冗談じゃないっっ!!)
拓馬の気持ちがよくわかる。
こんなのたまったものではない。
こいつを殴って捕まえて、全て吐かせなければ気が済まない。
このまま死ぬなんて絶対に嫌だ。
なのになにもできない自分が悔しくてたまらない。
男の言う通り、なにもできずに死ぬのか。
今真理ができることといえば、せめてもの抵抗にと、男を睨みつける目を逸らさないことだけだ。
空を切る音がした。
瞬間。
「おい、なにしてんだ!」
馴染みのある声とともに。
──司術が解けた。
男が声のした方へと振り返る。
その頬目がけて踏み込んで。
爪が食い込んで血の出ている拳を叩きつけた。
不意打ちに男から間抜けな声が漏れる。
しかし、相手は数歩よろけたのみで踏みとどまった。
「……いったいなぁ。さすが無駄に喧嘩してるだけあるね」
今お喋りに付き合うつもりはない。
続けて打ち込むべく距離を詰め、蹴りつけるが、その足は男の脇に挟まれ止められる。
そのまま男は身体を捻り、真理はバランスを崩して彼の意図通り地面へと崩れ落ちた。
追撃しようとする男の前に、見慣れた長身が滑り込む。
そして男の刀を持つ手首を掴んだ。
「なにしてんだって訊いてんだけど?」
「羽衣!!」
「あれまぁ無欲ちゃんかぁ。なっほど」
男の反応に、羽衣の肩が僅かに震えるのが見えた。
「てめぇ……」
「あら、もしかして覚えてる? お久しぶり。髪切ったぁ? ってかでかくない? 出るとこは出てないけど」
「失せろ」
「やだね」
この機を逃す手はない。
真理は羽衣とは反対側へと回り込み、組み付こうと試みる。
それを察したのか、男は掴まれていない手を羽衣の肩へとかけ、それを支点に勢いよく飛び上がった。
羽衣は突然の肩への重みでぐらつき、握っていた手を緩めてしまう。
そこに組み付く相手を失った真理が、勢いを殺せずそのまま突進する形になる。
真理と羽衣はふたり一緒に倒れ込んだ。
その近くに靴音。男が着地したのだろう。
「あーあ。司術なしで戦うの面倒くさっ。自己回復も馬鹿みたいに遅いし。打撲ひとつ治すのなんていつも一瞬なのになぁ〜。これ、並の黎瀬ならみんな人間同然になるんじゃない?」
男がぶつくさ言いながら頬に触れた。真理が殴ったそれは、すっかり元通りに再生している。
「そのままふたりとも送ってあげるよ……って言いたいけど、癒やしの坊やの報復とか受けたくないしなぁ」
(癒やしの……?)
衝撃が大きく立ち上がれないながらもなんとか体制を整えようとしていた真理は聞き逃さなかった。
希羽の知り合いなのか。それとも一方的に知っているだけか。さっき見聞きしていると言っていたしそれもあり得る。
ただ、羽衣とは知り合いのようだ。
こいつは何者なのだろうか。
羽衣も真理と同様にふらつきながらも次に備えようとしている。
男は軽い調子で。
「とりあえず、本来の目的からね」
祈念刀を真理へと向ける。
そこで、男の顔が強張った。
真理も異変に気づいた。
祈念刀の輪郭から、光が消えているのだ。
「嘘でしょ……君ってここまでだった?」
やがて男は瞠目した。
それはまるでなにか思い当たり、動揺した顔だった。
こちらから距離を取る。
「あーーもうっ叶夜くんの馬鹿っっ!!」
ぶちまけるように声を荒げた男は、祈念刀をしまうと真理達から背を向けて走り出した。
撒くような素振りはなく、ただ真っ直ぐに駆けていく。追いつかれるとは微塵も思っていないさまに腹が立つ。
真理は追いかけようなんとか立ち上がり、駆け出すものの、男はある程度進んだところで、前触れもなく消えた。どこかへ転移したのだろう。
移動の仕方はさまざまなのだなと、どこか能天気な自分が頭の中で呟いた。
「おい、大丈夫かよ」
後ろから追ってきた羽衣がハンカチを差し出してくる。真理の手を見たのだろう。
そういえば握り込んで傷つけたのだと思い出した。
素直に受け取り、乾き切っていない掌の血を拭く。
「な、なんとか……ありがとう羽衣! っていうか羽衣でもあんな危ないことするんだね!? 私はびっくりだよ!!」
「あー。俺も殺人犯を殺そうと鍛練してたことがあってなぁ。まさか役に立つことがあるとはな」
羽衣はあいつに聞いて知ってるだろうけどと言いたげな顔だ。
秋晴村での希羽の言葉から察するに、羽衣も星名村に住んでいたことになる。
そして、あの老人は星名村の村長だ。
羽衣だって復讐を考えてもおかしくない。
「あっ……あー……なるほど……。っていうかあれと知り合いなの羽衣!?」
男が羽衣に向けて親しげに話しかけてきていたのを思い出す。
「前に一度会っただけだわ!! 名前すら知らねぇよ! いや、あいつの連れが言ってた気がするけど覚えてねぇわ!」
心外だと憤った羽衣が、ここでふと目を瞬かせる。
「ってかお前。なにもされてないのになんで転がってたわけ? ボコられたわけでもなさそうだし」
かけられた疑問に、羽衣は男が黎瀬だとは知らないことがわかる。さきほど男が消えたところも見ていないらしい。
「えっ!? そ、それは……私にもわからないや。動けなかったのは確かだけど」
「なんだそりゃ」
羽衣は理解不能という顔をしたが、それはこちらも同じなのだ。
(羽衣が来た途端に、あいつの司術が解けた。しかも、祈念刀も使えなくなった)
そして男はある程度羽衣から離れてから消えていった。
(あいつ、羽衣のこと無欲ちゃんって言ってた)
希羽の金銭欲がお金に関わる願いなら、無欲は……。
──無に関する願い。
羽衣は黎瀬や精域をないものと考えている。
『そうだな。見ればわかるだろうな』
希羽の発言が反芻される。
羽衣に黎瀬の自覚はない。
つまり司術の発動は無意識だ。
今の男の発言も併せて、羽衣は四六時中司術を展開していると考える。
無意識に強く無を願っているもの。
──普段からあり得ないと思っていることを抹消している?
『自覚のない方が、あいつにとっては都合がいいと思ったんだ』
祈念刀すら無効化する司力。
人間として生きている羽衣。
希羽の言葉に、今やっと納得できた気がした。
その気持ちのまま、気の置けない親友へと口が勝手に滑り出す。
「う、羽衣っ! あのね、羽衣は追い出されたと思ってるのかもしれないけどそれには大きなわけがあって!!」
「いきなりなんの話だよ!? っていうか落ち着け!!」
「あ、はい……」
ごもっともですと縮こまる真理を見て、羽衣は「あー」と唸りながら目を閉じて頭を掻いた。
「お前遠慮がちに見えて図々しいし我が強ぇし頑なだからこのままだと一生あいつのことで気にしてくんだろ。面倒くせぇ。ならもう全部話してやるわ。……大体追い出されたってなんだよ」
「え?」
思いもよらぬ返しに切り出したこっちが動揺する。
「俺が出て行ったんだよ。あのクソみてぇな村からな」
「く、詳しく! その話、詳しく聞かせてっ!!」
希羽からも聞けていない情報が、ここで手に入る。はやる気持ちを抑えきれない。
そんな真理とは対照的に、羽衣は冷静な面持ちでスッと指差した。
「待てよ。お前そんなことよりやることあんだろ」
道路に叩きつけられた卵達を。
「あっ」
「俺も牛乳買いにスーパー行くとこだったんだわ。急ぐぞ。閉まっちまう。……明日家にくればちゃんと話してやるから」
「う、うん! わかった! あとごめん羽衣200円貸して!」
「お前の財布スッカスカかよ!!」
買い物を済ませ、羽衣と別れた真理は精霊石で手の傷を治癒しながら歩いていた。
傍に置いておいた怒りがふつふつと再熱していく。
もちろんあの男についてだ。
母を殺したと明言したあの顔に嘘偽りは感じなかった。
ならあの事件にはまだ真理の知らないなにかがあるのだろう。
あの日真理が家に帰るまでに、一体なにがあったのか。
先刻の真理のように動けなくされた可能性はあるだろう。
(さっきの落ちてた卵……)
真理に近い方は激しく潰れており、真理から一番遠い列は単純に落として割れたといった状態だった。
あの卵の壊れ具合からして、あいつの司術は範囲攻撃。今回は後ろから受けたから発動条件は推察するしかない。
司術は基本、司るものに触れ、文言や動作などの条件を達成することで発動する。
希羽の場合は自身が触れた金銭欲に対して文言を唱えることで発動しているのだろう。
(あいつから受けたのは重力操作っぽかった)
仮にあの男の司るものが重力だとして、範囲攻撃ならその範囲を指定する必要があるが、真理の周囲に陣やら円といった印はなかった。
となれば、視界で範囲を決めているのだろう。重力なら常に触れているものなので、わざわざ触れにいくという必要はない。
あとは文言や動作だが、司術が発動するまでには挨拶しかしていないので、希羽のような文言を唱えるタイプではなさそうだ。
(いや、その挨拶の『こーんにちはぁー!』の中に文言が入っているとか、それ自体が文言の可能性もあるけども……!)
拓馬のように動作が条件の可能性が高いだろう。
本人に確認してはいないものの、秋晴村で拓馬が姿を消す司術を見せるために手を差し出す際、一度手を握り込んでいたのでそれが発動の動作だと推察している。
しかし結局推察は推察。答えではない。
司術の発動を阻みたいが、条件が不明ではどうしようもない。
司術の発動までの僅かな時間で範囲外へ移動するのも厳しそうだ。
もし次があるとして、条件知りたさに黙って受けるわけにもいかないだろう。ここは先手必勝の考えでこちらから潰しにかかるしかない。司術を使わせずに武術での戦いに持ち込めばこちらにも勝てる可能性が。
そこまで考えて、真理は自分の膝を殴った。
(なんで戦いの話になってるのさぁぁ!! 私の馬鹿っっ!!)
報復の怒りと同様、いやそれ以上に、あの男と戦いたいという気持ちが湧いて出る自分自身にも腹が立つ。
天国にいる家族が見たらなんと言うだろうか。怖くて聞きたくない。
ここで自宅が見えてくる。
門を勢いよく両手で開け放し、閉めずに進む。
いつも丁寧に開けるドアを思い切り引いて殴りつけるように閉める。
思った以上に大きな音を立ててしまい、驚きで少し冷静になった。
このままだと家族に八つ当たりしかねないなと深呼吸しつつ廊下を歩き、リビングを通って台所へと向かう。
リビングには誰もいない。
父と妹、弟は和室にいるようだ。弟がぐずっているのか、えぐえぐと泣いているのを宥める声がする。
卵を渡そうと台所に入ると、母が床をキッチンペーパーで拭いていた。どうやら油を溢してしまったらしい。
「ああ真理、おかえり。この辺踏まないでね? 油でベタベタになるから」
「うん……」
いつもなら手伝いを買って出るところだが、とてもその気にはなれなかった。
早く希羽と拓馬に話して軽くなりたい。
真理はふたりの泊まる部屋の前に立ち、ノックする。
許可の声が返ってきたのを確認してから中に入った。
「ただいま」
「お、おかえり白部。遅かったな」
「おかえり真理」
拓馬が片手を軽く上げる。
希羽も拓馬に続いて出迎えの言葉を述べた。ただ、違和感がある。さきほどと服装が違うのだ。
真理が出かける前には既に寝巻きだったはずなのに、どういうわけか違う寝巻きに着替えている。
それに、いつも寝る直前まで着けているあの黄緑のヘアバンドがない。
どうしたのかと問おうとするのを先回りして拓馬が答えた。
「さっきちょっと事故っちまってさ。こいつ油被っちゃったんだわ」
「えええぇっっ!?」
自分の怒りが再び吹っ飛んでいった。
兄妹揃って驚かせてくれる。
「すまない真理……僕の速さ不足で悠に嫌な思いをさせてしまった」
「ちびっこは妙にスピードあるよなぁ」
「いや大丈夫なのっ!?」
「俺の司術で完全回復してるから大丈夫だって」
「そ、そっか。坂井くん治癒の司術使えるんだね……」
どういうわけかと詳しく聞くにはこういうことらしい。
弟が希羽のヘアバンドを貸してもらい、それを着けた姿を母に見てもらおうと台所へと突撃してしまったらしい。
突然足にくっつかれた母は驚きのあまり冷ましていた油の入ったフライパンに腕が当たってしまい、冷め切ってない油が弟に降りかかろうとしたところを希羽が滑り込んだようだ。
「さすがに美琴さん達の前で自己回復するわけにはいかないからどうしようかと固まっていたら、拓馬が僕を風呂場に担ぎ込んで冷水をかけてな。治癒の司術もかけてくれたんだ」
そう言う希羽をどこか訝しげに見つめる拓馬。
「……あの状況でなんの対処もせずに大丈夫は無理があるからさ。水被せてから司術かけたわけ」
治癒を施した拓馬は希羽に余分に持ってきていた寝巻きを貸し、救急車を呼びそうになっている母に大したことなかったことを伝え、部屋に戻って真理の帰宅を待っていたという。
「すごいね坂井くん。お母さん達を誤魔化せたんだ」
さすがに治癒の司術でどうにかしましたと言うわけにはいかなかっただろう。
拓馬はなんだか納得いかないといった顔で。
「いや、あれは誤魔化せたっていうか……まぁ、とりあえずなんとかなったわ」
「そっか……ともかく、大丈夫そうでよかった」
そう真理が安堵していると、部屋の扉が叩かれた。入るように促すと、妹が弟とともにやってきた。
「希羽兄ー! 悠くんがね、謝りたいんだって」
妹に連れられてきた弟は真っ赤にした目を潤ませて、自分の服の裾を掴んでいる。
その頭には希羽の黄緑色のヘアバンドを被ったままだ。
「きゅう、めんね……めんね」
希羽が崩れ落ちた。
弟が慌ててかけより、地べたに着いた頭を撫でる。
「僕はもう終わりだ……」
「いや希羽くんその態度だと余計泣かせちゃうから! 逆効果だから!!」
「はっ!!」
彼はバッと顔を上げると、弟に向けて片膝をついた。
「大丈夫だぞ。僕はもうなんともないがね」
「たいたい、ないの?」
「ああ。痛くない」
希羽はヘアバンドをした弟の小さな頭を優しく撫でて。
「とても似合っている」
穏やかに微笑んだ。
弟は目をぱちぱちさせてから、えへへぇと笑うと。
「きゅう、あぅねー!」
すぽんとヘアバンドを取って希羽の頭へ乗せた。「似合うね」と言っているつもりらしい。
「……ありがとう」
希羽は乗せられたヘアバンドをそのまま被った。
「これで一安心かな? それじゃあ、おやすみー」
「きゅう、たっく、まぁり! ねんねー!」
「おやすみ」
「おやすみー」
「おやすみ!」
小さい子特有の切り替えの速さで、弟は妹と部屋を出て行った。
「癒やしの言葉は沁みるがね……」
ドアの閉まるのを確認してから、希羽は呟いた。その目はうっすら潤んでいる。
(希羽くんって本当に癒やし第一なんだなぁ)
と思っていると、拓馬が話題を変えるように切り出した。
「それにしてもあんた寝巻き一着しか持ってなかったのかよ」
そういえば見たことないと思っていたが、拓馬の言い草から今希羽の着ているのは拓馬のものなのだと悟った。
(どうりでかなりゆったりしてるわけだ!)
ズボンの裾は大して折られていないのを見るに、希羽は身長の割に脚は長いらしい。
……拓馬が短いという可能性もあるが。
「夏だからすぐに乾くからいいだろうと。そもそも所持金が少なくて普段着と寝巻き一着ずつと下着数枚買うので精一杯だったんだ」
「あんた貯金とかねぇの?」
「君は生贄になるのに通帳やキャッシュカードを持っていくのか?」
「……あー。そういやあんた儀式中だったんだっけ。まぁ、ないわな。俺は儀式の練習ってことで呼び出されたから私服だったし財布と一緒に持っていきましたけど」
「だろう? パーカーにお財布が入っていたのが奇跡だったんだ」
「キーホルダーも入ってましたよね?」
「あれはいつでも癒されるための常備品だ」
「それもらってよかったわけ?」
しばしふたりの会話を聞いていたが、真理はふと気になったことを訊ねた。
「そういえば、希羽くんのあの服装ってなんだったの? 変身みたいだったけど」
「ああ。黎装のことだな」
「え。白部知らないで黎装の幻影纏ってたの?」
「いやあれは黎瀬の民で着てる人がいるからそういう民族衣装的なものかと思ってたんだけど……違うの?」
「真理。僕はあのタイミングで意味のないお着替えをする趣味はないがね」
「それはわかるよ!? だから訊いたんじゃない!!」
「黎装は精霊の衣。高い精霊分を持つ者が展開できる姿だ」
「精霊としての力が増幅するんだよ。少ない司力で展開できるから戦う時できる奴は大抵使うんじゃねぇか? ちなみに黎装は人間にも見えるからな。ってか見えなかったらどうなんだって話だけど」
ようは戦闘服なのだと真理は思った。
希羽も戦いになることを懸念して黎装したのだろう。
拓馬を助けた際に元の姿に戻っていたのは、術式を解くのに司力を使い切ったからだと理解する。
「あ、真理。元々着ていた服はどこへあるのかと言われるとよくわからないから訊かないでほしいがね。よくわからないから僕も黎装の時はヘアバンドを外しているくらいだからな」
「あれどこかにいっちゃうのが怖いから取ってるだけなの!? 黎装になる鍵とかじゃないんだ!?」
「黎瀬にだってわからないこともあるがね。真理だって人体の全てがわかるわけではないだろう?」
「そうだけどね!?」
「ちなみに黎装は生まれながらに決まっているから、多少なにかを足すことはできても変更はできないぞ」
「それは俺も初耳なんですけど!? うわ、まともなのでよかったー……」
拓馬が胸を撫で下ろす。
さきほどの油被り事故の件はどこへやら、すっかり穏やかな空気だ。
よかったよかった。
……ではない。
驚きですっかり吹き飛ばされた憤りはよしとして、出来事は話しておかなくては。
真理は流れに乗るように話した。
「そうそう、私さっき報道されてた殺人犯に殺されそうになってね!」
「へー……っは?」
「がねね……ん?」
普段の調子で相槌を打ちかけたふたりは、お互いに顔を見合わせて首を傾げた。
頭上に三点リーダーがてん、てん、てんと現れた気がした。
「はぁぁぁ!? なんだよそれ真っ先に話せよ馬鹿なんじゃねぇの!?」
「僕の黎装に言及している場合じゃないぞ!?」
「ってか通報……っていう考え、白部にはなさそうだよな……」
拓馬の呆れ顔に思わず「あっ」と声が出る。いつもの喧嘩の感覚で忘れていた。
(羽衣も忘れてたのかな? いや、面倒くさがったのかも。早く牛乳買いたかったっぽいし……)
どのみち黎瀬の民が相手なら人間の警察ではどうにもできなさそうではあるが。
警察にも黎瀬の民はいるのだろうか。
希羽が先を促してくる。
「それで、どんな奴だったんだ?」
真理はあの男について話した。
容姿から司術の特徴。
そして。
あの男が自分の母を殺したと言ってきたことと、身につけたピアスが自分の父のものだということを。
希羽は口元へ手をやり、その肘にもう片方の手を添える。考え込むような体勢だ。
なにか知っているのだろうか。そういえばあの男も希羽を示唆する言葉を発していた。
拓馬も希羽の方を無言で窺っている。
少ししてから、希羽は口元にやっていた手を真理の前へと差し出した。
「真理、そいつはこんな奴だったりするか? ……銭幻」
問いに続いて小さく唱えられる。
掌から金色の光が溢れ、吸い上げられるように光の雫がふわりと浮いた。
すると、すぐ側にひとりの男性の姿が現れる。
青竹色のくるふわな髪。黄緑色の瞳。
体格は真理の見たものより小さいが、まさにあの男だった。
思わず拳を振り下ろしたが、あっさりすり抜ける。
あまりにリアルで錯覚したが、幻なのだ。
そして、その幻は喋り出す。
『いより。生ける依代で生依だよ。よろしく。いや、別によろしくしたくはないんだけどね?』
その馬鹿にするような嫌な笑顔でこれは同一人物だと確信した。
「そう! それ! もう少し背が高かったけど、その見た目だしその声だったよ! すごいね希羽くん! 思わず殴りそうになっちゃった!!」
拓馬から「いや殴ってたよな?」と声がしたが聞かなかったことにする。
希羽は苦笑した。
「がねね……僕の銭幻は経験に比例する。経験が濃いものほど現に近くなるんだ」
つまり経験が薄かったり、イメージのみだと幻寄りになるのだろう。記憶が曖昧だと、もっとぼんやりするのかもしれない。
真理の精霊石にかけてくれたものを考えると、他人を介せばその人のイメージでも銭幻できるようだ。
「知り合いなの?」
「同僚といったところだな。祈念呪の」
「あっ、あいつも祈念呪なんだ。ちなみにどこの?」
希羽は不意打ちを喰らったかのように、ぽかんと口を開いた。
「どこの……? はて、どこのだったか」
「ちょっと希羽くん?」
「すまない。癒やし以外には興味がなくてな。名字すら覚えていない」
「まぁたしかにあいつに癒されるとか言われても困るけど……」
ともかく彼が祈念呪なら、自分の代わりを祈念刀で送っているということなのだろうか。
考えていると、希羽がさらに続けた。
「毎月やっていた祈念呪の会で知り合ったがね」
「なにその生贄被害者の会みてぇなの」
「本来の祈念呪と、本来だがそれを知らない祈念呪と、秋晴村のように形骸化した平和な祈念呪が混ざり合っていたからとても混沌としていたぞ」
「行きたくねぇぇ!!」
「祈念呪との交流を深めることで、逃げ出すことなく使命を果たせるようになるそうだぞ?」
頭を抱える拓馬に希羽が補足する。
「……なるかなぁ?」
「むしろボイコットになりそうじゃね?」
「逝くのは自分だけではないというあれじゃないか?」
「ああ、みんなで渡ればなんとやらっていう?」
「自分の代わりにしようとしても、仲を深めた祈念呪を送る気にはならないということも含まれるのかもしれないな」
「うへぇ……ってか白部よく生きてたな。……大丈夫か?」
拓馬が気遣うように訊ねてくる。
おそらく両親の件を気にしてくれているのだろう。
「大丈夫! タイミングよく友達が来て逃げていったからね! あと一発は殴れたからちょっとスッキリしてるし!!」
ふたりと話していたら落ち着いたとは恥ずかしくなって言えなかった。
そのせいか、拓馬の意図が伝わったことが伝わらなかったようで彼の顔に困惑が描かれる。
「いやそうじゃなくてっ! いやそれもあるんだけど!! ええぇ……」
「あいつを殴れたのか? すごいな。生依は最も精霊に近い黎瀬と言われているんだぞ」
希羽は素直に感心していた。
あの男……生依も祈念呪なだけあって、やはり精霊分が高いのだろう。
真理はひとつ気になっていたことを問いかけることにした。
「でもあいつの持ってた精霊石が、私のお父さんのものだって言ってたんだけど……精霊石って信頼によって効果が引き出せるんだよね? お父さんがお人好しだったのかもしれないけど、いくらなんでもお母さんを殺した人に信頼なんてしないよね?」
覚えたばかりの知識からの疑問だ。希羽が答える。
「精霊石の信頼は造った時点でのものが込められるんだ」
つまりは事件以前に父が造ったものを所持している可能性もあるということだ。
真理は納得した。
「昔仲良くしててもらったとかなのかな」
「いや、それはないと思うぞ」
「え、なんで? 黎瀬の民同士なら、お互いのを渡してたとかありそうじゃない?」
そんなにおかしなことは言っていないと思うのだが。
拓馬はどこか気まずそうに言った。
「あのなぁ白部。黎瀬って精霊石の交換とか基本的にしないんだぜ。持ってるのは大体拾い物か買ったやつ」
「えっ!? しないの!? 信頼の証みたいに渡すんじゃないの?」
希羽が苦笑する。
「真理。お互いの信頼がお互いの思っているものとは限らないじゃないか。拓馬と大地のようにな」
「あっ」
そのまま拓馬を見た希羽と同じく、真理もそちらを向いた。
拓馬は頬を掻いている。
気まずそうだったのはそのためかと気づいた。
「本人の前でそれ言いますぅ? ま、信頼が反映されるわけだから逆にトラブルも多いんだよ。村で読んだ資料だと、恋人の気持ちが気になって毎日精霊石を造らせて確認して不安を解消していたら、そのうちその行為に相手が辟易して破局とかあったぜ?」
「うわぁ……」
精霊石は思ったより夢のあるものではないのかもしれない。
「だからお互い仲がよくても交換はしない黎瀬がほとんどだがね」
「よっぽど好きで一方的に渡すとかならあるかもしれねぇけど、まぁ稀だわな」
「そうだ拓馬! それで君の髪をどうにかできそうだと思ったんだ」
「はい??」
希羽は部屋の端に畳んで置いてあったパーカーのポケットからネックレスを取り出した。それには歪な形をした水晶のような透明の石が下がっている。
「癒やしが誕生日に造ってくれたんだ」
嬉しそうに教えてくれる希羽。村の子どもにもらったのだろうか。
小さい子がよく知らずにプレゼントしてくれたのなら納得がいく。
「強化の力がある精霊石ですか?」
「そんなところだ。拓馬、君には再度話すことになるが、君の金髪は人間から見ても異質ではない色のためにそのまま見えてしまっている」
(なるほど……! 金髪とか白髪は人間でもありえるから……)
真理は希羽の拓馬へ告げる内容を聞いて勝手に納得した。
「僕の銭幻を施せばいいんだが、このまま永続的なものをかけようとすると、君の精霊分のほうが高くて発動しない」
黎瀬の民に永続的な司術をかけるのは難しい。
精霊としての本能が危機だと感じ、無意識に抵抗するためである。
特に精霊分の高い者に施すのは至難の業だと、真理も聞いたことがあった。
希羽はネックレスの精霊石を掴み、チェーンは親指で挟んで垂らす。
「この手を握ってくれ」
拓馬は素直に精霊石ごと彼の手を握った。
目を瞑る希羽。
握った手から拓馬の輪郭に沿うように、金と白の光が通っていく。
手から頭へ。頭から足へ。
そして足からまた手へと、2色の光が追いかけっこをするように辿っていく。
再び希羽の手元へと光が戻ってきたところで、彼はぽつりと唱えた。
「銭幻」
一周した光が完了とばかりに弾けて消える。するりと希羽は手を離した。
「よし、これでいいんじゃないか? 君の金銭欲を糧にしているから、解けることはないだろう」
「おう」
「へぇぇ……!」
ここで真理は理解した。
司術は基本、込めた司力が尽きれば解けてしまう。
しかし、欲は尽きることはない。
拓馬自身の金銭欲を糧にかけることができれば、司術は永続的に発動できる。
まさに、金銭欲を司る希羽だからこそできる芸当だ。
「……ん? 解けることはない?」
感心していたが、途中で秋晴村でかけた銭化の時の台詞を思い出した。
『かけられた者の金銭欲を元に姿を変化させた』
「ちょっと待って希羽くん。あの村で司猫にしちゃった村人の方は元に戻れてるの?」
「…………」
希羽は優しげな表情でうっとりと片手を頬に添えた。
「癒やしになれるのなら幸せだろう?」
「いやいやいやいや!! 希羽くん!? それ希羽くんの願望だよね!?」
「猫になりたいという人は多いじゃないか」
「そうだけども!! 多いだけだよ!? それに一時的にならいいのかもしれないけど、永久に猫のままっていうのはどうかなぁ!?」
「だが、あのほうが癒されるし……」
「希羽くんはね!? あれすごく平和的な解決手段かと思ってたんだけどなぁぁぁ!?」
「自身の金銭欲を無くせば解けるぞ?」
「無理難題っっ!!」
ここで拓馬も入ってくる。
「……おい。まさか俺がスーパーで会った奴らにかけたのも……」
どうやら昼間なにかあったらしい。
希羽は一字一句違わず答えた。
「自身の金銭欲を無くせば解けるぞ?」
「ぜってぇ無理だわ! あいつらなら特に。……面倒なことになる前に解いておけよ」
「……うむ」
納得はしていないといった顔で、希羽はうなずいた。
「ともかく、真理。拓馬にかけた司術がちゃんと機能しているか見てほしいがね」
この場にいる人間は真理だけだ。
真理が言われるままにヘアピンを外し、確認する。
そこには本来の茶髪の拓馬がいた。
「うん! 元々の茶髪に見えるよ!」
「はぁぁ〜、よかった……」
拓馬は力が抜けたように肩を落とし、背を丸めた。心底安堵したという表情に、こちらも嬉しくなる。
真理の温かい視線に気づいたのか、彼はハッとしてから、気まずそうに視線をあちこちにやっていたが、それは最終的に希羽へと運ばれた。
頭を掻きながら、睨むように目を細める。
「……さっきの治癒と寝巻き貸したのでちゃらですからね!」
「? ああ」
希羽は特に気にする様子はなく、淡々と返していた。
(坂井くん、素直じゃないなぁ)
真理は思わず笑いそうになったが、咎めるように拓馬が見てきたので慌てて表情を引っ込めた。
拓馬は切り替えるように一度手を叩く。
「やっと本題に入れるな。俺達が次に行くのは星錬」
──8年前に崩壊した、祈念呪の儀を積極的に行なっていたところだ。
2023.1.5 初出