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第3章

「いや、駄目ですがね! 約束と違うじゃないですか!!」

「いいのよ希羽くん! もう朝のお洗濯もお風呂掃除も悠くんのオムツ替えも、私が面倒くさくて昨日ほったらかしたアイロン掛けまでしてくれたんだから! 朝食は私が作るわ!!」

「その朝食作りだって面倒でしょうがね! 好き嫌いとアレルギーの有無さえ教えてくれたら僕がやりますから!!」

「ああ……この言葉、真理から聞きたかったなぁ……でも駄目! 私のすることなくなっちゃうから駄目!!」

「がねぇ……なら、洗い物はやりますからね!!」

(な、なんだろう……この状況……)

着替えてリビングに降りた真理は、希羽と母の平和な言い争いを目にしていた。

希羽の腕の中には弟がおり、きょとんとした顔でふたりの顔を見ている。

声もかけられずにぼーっとしていると、希羽がこちらに気づいたようで、「おはよう真理!」と笑みを浮かべた。

「すごいぞ! (ゆう)はもう僕の名前を覚えてくれたがね!!」

「きゅう!」

「ほら! 嬉しいがね〜。癒やし癒やし!」

瞳をキラキラさせて報告してくる姿はまるで子どもだ。思わず笑って返した視界に、ある物が映り込む。

真理の洗濯物だ。

ソファの上に綺麗に畳んで積まれている。

「あれ。これって」

「君の洗濯物だがね。畳んでおいたぞ」

「だよね! ありがとー! ……待って。希羽くんが畳んでくれたってことは、見たの!?」

洗濯物にはもちろん下着も含まれている。なんなら一番上に乗せてあるわけで。

希羽はきょとんと首を傾げた。

「? そりゃあそうだがね」

「いやいやいやいやありがたいけど次から私のはやらなくていいから! ね!?」

「いつも畳まずに落っことしてる子がなに言ってるのー」

「言わないでお母さぁぁん!!」

そこで慌てている真理の後ろから、眠気の抜けきらない声。

「お姉ちゃん……羽衣姉の親戚の子とはいえ、連れ込んだ男の子を小間使いにするなんて……なんという悪女」

「謂れのないレッテル!!」

そんなやりとりがありつつ、夏休みを目前にした日曜日の朝食が始まった。

テーブルに家族と希羽の全員が揃う。

「ああ……なにもせずとも食事が出てくる幸せ……っ!」

希羽は心底嬉しそうで、自身の言葉通り、正に幸せを噛み締めているといった表情だ。

昨夜の無表情とは雲泥の差である。

「羽衣姉とか家事全くやらなそうだけど、お兄さんは逆なんだね!」

「そうだな……羽衣はなにもしないな。ゴミステーションに投げてやろうかと思うくらいになにもしないがね」

妹の問いに頷く希羽。

その内容に疑問を持った真理は思わず口を開いた。

「え。羽衣は結構家事とかはしっかりしてるけど……こないだとかシフォンケーキ焼いてくれたよ? 料理はなんか恥ずかしいみたいで人に言わないみたいだけど」

「えーっ! そうだったの!? 意外!!」

「なん……だと……」

目を瞬かせる妹。

希羽はこれでもかと言わんばかりに目を見開き、そのまま考えるように手を口元へやって俯いた。

「希羽くん?」

「羽衣が、家事……? しかも料理まで……晴天の霹靂とはこのことか……。なぜ8年前まではやらなかったんだ羽衣。甘えていたのか? 僕が甘やかしていたのか? いや、僕はことあるごとに窘めていたはすだ。……僕が言うんじゃだめだったのか? 今まで決めてきたジャーマンスープレックスは無駄だったのか?」

「いやいやなにしてたの希羽くん!?」

「? 8年ってなに?」

「はっ!! ……し、失礼したがね。忘れてくれ……」

そこで希羽は我に返り、眉を下げて笑った。

妹は特に気にすることもなく、なにか違うことを思いついたようだ。

「あ。ねー! 希羽兄(きうにぃ)って呼んでもいい?」

「ああ、構わないぞ」

「やったぁ!」

(さすが実歌(みか)……コミュ力が高い……)

妹の実歌は小学5年生。真理とは異なり、積極的で友達も多いのだ。

「……いいなぁ実歌。私にもその積極性を分けてほしいよ……」

「え?」

「え?」

「え?」

「あう?」

「ちょっとなにその反応は!?」

思わず呟いた言葉に妹、母、父、弟がいっせいにこちらを見てくる。

「だって、ねー? お姉ちゃんは積極性がないわけじゃないもん」

「そうね。使いどころを間違えてるだけで、積極性はあるわよね」

「それがもう少し人付き合いに発揮できるといいな」

「あう!」

「うぐぐ……」

不服な気持ちで家族の会話を聞きながら、ちらりと横目で希羽を見やると、彼は家族の反応の訳を察しているのか否か。思わずといったように笑みを浮かべていた。しかし、すぐさまはっとして表情を払う。

そして口元に手を添え、まるで自戒でもするかのように目を伏せた。

(? どうしたんだろう?)

真理は不思議に思ったが、家族の揃っている今追求するのは憚られた。

そこで、真理の前に箸が伸びる。

「お姉ちゃんの卵焼きもらいー!!」

「ああああああ!!」

好物が為す術もなく奪われ、真理から情けなく響く声が家族の笑い声に混ざっていった。

「それで、真理はどうするつもりでいるんだ?」

朝食を終えた真理は昨日立てた予定通り、希羽とともに空き部屋の片付けをしていた。

「そうだねぇ……正直、今の実力じゃあ少し不安だから鍛錬だよね! だからあいつと同じで刀を扱う先輩に特訓をお願いしようと思ってるよ!」

「……本当にやる気なんだな。僕を引き止めるための出まかせかと思っていたんだが……いや、昨夜の目は本気だったな」

困惑した顔でうなずく希羽。

真理の目的はふたつだ。

(あの人を倒す! そして希羽くんの復讐を止める!! っていうかこっちが本命!!)

とりあえず今は、ふたりして復讐のために動くのだ。

「希羽くんは急いでたりするの?」

なにをとはあえて言わない。

希羽は静かに首を振った。

「いや……正直、さっさと君から離れたくて急いだだけだ。だが、詫びもせずに立ち去ることがどうしてもできなくて」

やはり何も言わずに適当に済ませて去るつもりでいたらしい。しかし誠実さが邪魔をしたと。損するタイプなんだろうなと真理は思った。

「それに君と一緒にいる羽衣の写真も見てしまったから、無表情を貫くのが大変だったがね」

妹の友人である真理が気になったというところだろうか。

「羽衣がかっこよすぎて」

「そっっち?!」

思わず声を荒げると、希羽は昨夜弟を抱きあげた時と同じ緩い笑みを浮かべた。

「いやぁ、両親ともに高身長だから、背は高くなるだろうなと思ってはいたんだが……やっぱりかっこいいなぁ……! 母さんに似た鋭い目も相まってシュッとしたかっこよさに拍車がかかっているがねぇ! 癒やし癒やし!」

(希羽くん……さっきの家事の話の時といい……羽衣のこと、大好きなんだね。シスコンなのかな?)

しかし、嬉しそうな彼を見るとなにも言えなかった。

「えっと……その口ぶりだと、羽衣とはしばらく会ってないのかな?」

このままどこか違う世界に行きそうな希羽を呼び戻す。

希羽はすっと表情を沈めた。

「そうだな。もうすぐ8年になる……。あいつの傍若無人は相変わらずなのかね?」

「あ、うん。まぁね」

(冷静な視点も持ち合わせてるみたいだし、盲目的なシスコンではなさそう)

口には出さないけども。

希羽は懐かしそうに言う。

「大飯食らいで食費が馬鹿にならなくて。穏便に済ませるということを知らないから、毎日流血沙汰の嵐だったがね。少しは収まっているのか?」

「いともたやすく想像できましたし、なんなら先週やらかして今停学中ですねぇ」

「……変わっていないんだな……」

虚空を見つめる真理に、希羽はため息を吐いた。そしてこちらを見る。

「とまぁ、そんな殴られたら殴って蹴って絞めるようなあいつが、友達を連れてきたことなんて一度もなかったから……君のことがすごく気になったのもあるがね」

「でも羽衣のかっこよさが上回ったんだね」

「そうだな」

「それでグラグラしてた無表情が、悠くんで決壊したんだね」

「そうだな! 癒やしには逆らえないからな!」

「うん。希羽くんが癒やし第一主義なことはよくわかったよ」

おそらく希羽の言う『癒やし』は親しい者の呼称でもあるのだろう。

赤ちゃんと司猫(すねこ)なるものは無条件で癒やしになると言っていたのを思い出す。

(とりあえず羽衣と赤ちゃん。あと、司猫? が癒やしってことかな。覚えておこう)

色々あったが、真理の知らないところで希羽も揺れ動いていたようだ。

「鍛錬は大いに結構なんだが、あの場所に行く方法はあるのかね? その精霊石か? そもそも、黎瀬でない君がなぜこうも詳しいのかね?」

「そういえば話してなかったね。気にならなかったの?」

「気にならなかったわけではないが、ぶっちゃけあの時点でそんなことはどうでもよかったがね!」

「だろうね!!」

真理は希羽に伝えた。

子どもの頃幾度となく聞かされていた精域の話が描かれた絵本がとても好きだったこと。

正確には精域という言葉はなかった。主人公が精霊の力を借りて不思議な場所に行き、そこにのさばる魔物を倒すという物語だ。

もちろん子どもながらにお伽話だと思っていた。

しかし大きくなるにつれ、絵本や小説、音楽や銅像、建築物……さまざまなものにあの絵本と同じ雰囲気を感じたのだ。

もちろん、それは真理の感覚に過ぎないと思っていたので誰にも言えずにいたのだが。

実は本当に、あの幻のような場所があるんじゃないか? と常日頃空想に浸っていたものだ。

「よく想像してたんだ。あの不思議な世界で……魔物と一戦交えるの」

「…………」

それが現実に起こるきっかけが、12歳の誕生日だった。

真理は、こめかみのヘアピンを外して見せる。

ヘアピンに施されているのは、エメラルドグリーンの石。

「お母さん……あ、今ここにいる方ね! ハンドメイドが趣味で、よく素材とか買ったり拾ったりして作ってたの。それ見てたら私も手作りのアクセサリーが欲しくなっちゃって、誕生日プレゼントにお願いしたんだよね」

母からもらった手作りのヘアピン。

その装飾に使われているのが精霊の力の結晶──精霊石だったのだ。

ヘアピンをつけて部屋に戻り、いつものように空想の世界に意識を飛ばしたことが、精霊石を発動させることになった。

「いつの間にかお花畑にいた時は死んだかと思ったよね」

慌てて帰還を願えばすぐに戻れたことから、真理は精域へ渡るのが趣味になったのである。

「そこからは精域で情報収集した感じかな! 黎瀬の民の会話に耳を傾けたりとか、試し合いで勝った報酬に訊いたりとかね!! ただ、絵本の魔物がいなかったのは残念だったな。一番期待してたんだけど……」

「そ、そうか……本当、慎重なのかそうでないのかわからない人だな。君は」

「あはは……。それで、聞いたことと私が自分で確かめてわかったことを合わせたの。希羽くんなら知ってるかもしれないけど……」

そう前置きして伝える。

人間が精霊石を使うと精域への縁を結び、往来を可能にすること。

初めて行く場所はランダムだが、一度でも行けばいつでもその精域には自由に行けること。

「だから、希羽くんと会った所にはいつでも行けるはずだよ」

こんな感じに。と真理は希羽と出会った精域へ空間を繋げようとした。

「あれ?」

いつものような感覚はなく、空間が開く気配もない。

嫌な予感が頭をよぎる。

(もしかして、あの場所……記憶されてない?)

おかしい。確かにこの精霊石を使って移動したはずなのだが。なにかの不具合だろうか。

(今までこんなことなかったのに……。よりにもよってこんな時にならなくても!!)

いつでも奴のもとに行ける算段だったのに。

真理の反応から察したのか「不具合かね?」と顔を覗き込んでくる希羽に小さくうなずく。

記憶されてないのなら、実際にその精域のある場所に赴き、精域へと通じる繋ぎ道を見つけて行くしかないのだが。

「希羽くん、あの精域ってどこにあるの?」

希羽は眉を下げて笑う。

「紋別って知ってるかね?」

「うわあああ北の大地ぃぃ!!」

とてもじゃないが行けそうにない。自分はアルバイトすらしていない高校生なのだから。

家族旅行でも提案すればよいのだろうが、家族を巻き込むのは真理にとってもおそらく希羽にとっても論外だろう。

「これは、精霊石を使って地道にあの場所に辿り着くしかないな」

「初見は完全にランダムだから……あの場所に辿り着くのにどれだけかかるかなぁ……はぁぁ」

やることがひとつ増えてしまった。

奴のいるあの精域に着くまで、ひたすら精域を巡るという、かなり厄介なやることが。

真理はがっくりと肩を落とす。希羽は眉を下げたまま。

「仕方ない。素敵な巡り合わせに感謝してしばらく堪能させてもらうがね」

そこまで言って、手を顎にやる。

「しかし、僕がここにいられるのも、真理の考えた言い訳を考えると長くて8月までだろうな。『夏休み中に羽衣の家に遊びにきている親戚の子』という認識だろうし」

「そうだよね、それまでには頑張らないと……って」

今さらっと聞き流してしまったが。固まる真理に、希羽は首を傾げる。

「? どうかしたがね?」

「え、ああ、いやぁ……名前で呼ぶんだね? いや、別に嫌とかいうわけじゃないけど! 珍しいなぁというか!! いや、私も希羽くんって呼んじゃってるんだけども!!」

「ああ。僕の村は名字がみんな星名(ほしな)だから、名前で呼ぶ習慣があるんだ。だからつい」

嫌ならやめるぞ? とこちらを窺う希羽に、真理は首を振った。

「大丈夫大丈夫! 慣れてないだけだから!!」

自分を名前で呼んでくれる人なんて数えるくらいなうえ、呼び捨てなのは家族と羽衣だけだとは言えなかった。

(そっか。なら希羽くんの村で『星名さーん!』って呼んだらみんな振り向くのかな)

ちょっとやってみたいかも。真理はうっすらと湧いた好奇心をそっと心の奥へしまった。

「そもそも、君の名字を聞いていなかったな」

「そういえばそうだ! 白部(しらべ)! 白部真理です! かなりいまさらだけど……よろしくね?」

「星名希羽です。よろしくお願いしますがね?」

ぎこちない挨拶に、希羽も乗って返してくれた。

「さて、と! 切りもいいし、まずはすぐにできることから消化してこようかな。羽衣の家に行ってくるけど、希羽くんも行く?」

粗方の片付けは終わり、あとは掃除を残すのみとなった。昼食はおにぎりですませてやった甲斐があったと思う。

時刻は13時を過ぎた頃。昼間のうちに行った方がよいだろうという判断だ。

真理の問いに、希羽は大きく首を横に振る。

「真理。あんなことを話しておいてなんだが、僕は羽衣と一生会う気はないぞ」

真剣味を帯びた声が響く。あの口癖も身を潜めている。

「え」

「それと、羽衣には僕のこと話さない方がいい」

そう困った笑みを浮かべる希羽から追求を拒む空気を感じた真理は曖昧にうなずいた。

真理は、口裏合わせのお願いをしに羽衣の家へ足を運んだ。

望月の表札の脇にあるインターフォンを作動させると、羽衣の低い声が返ってくる。どうやら今両親は家にいないらしい。そうでなければ、あの社交性のない彼女がインターフォンに出るわけがないからだ。

きっとふたりで買い物にでも出掛けているのだろう。羽衣の両親はとても仲がよいのだ。

少しすると玄関のドアが開き、面倒くさそうに頭を掻きながらスラリとした長身が姿を見せた。

180を超えた背丈とスタイルのよさのためか、だだのTシャツとスキニーでもお洒落に見えるのが羨ましい。

ショートヘアの髪は深い紫で、透き通るような白い肌を引き立てている。

シュッとした輪郭に切れ長の鋭い瞳が、大人びた美しさを感じる顔立ちだ。

低い背丈に幼さを感じる美しさを持っている希羽とは、色を残して正反対である。

(姉弟とは思うかもしれないけど……双子の兄妹とは言われないとわからないなぁ)

「おい。なにじっと見てんだよ」

ぼーっと羽衣を見つめていると、希羽と同じ緑がかった金色の瞳が細められた。

「いやぁ、羽衣の目って綺麗だなぁって」

「はぁ? ただの黒目に……っておい。また変な妄想話する気じゃねぇだろうな!?」

「違うよ!!」

「あっそ。……早く入れよ」

やはり羽衣に黎瀬の民の自覚はないらしい。先日の説明は全て真理の創作ということになっているくらいだ。精霊の存在すら信じていないのだろう。

(今度、希羽くんに聞いてみよう)

答えてくれるかはわからないが。

ここで、ポケットのスマホがブーッと一度だけ震えた。おそらくアプリの通知だろう。今すぐ確認する必要はなさそうだ。

真理はそのまま羽衣に続いて家に上がった。

「つまり、小学生拾って飼い始めたから口裏合わせろってことか?」

「いや、実際は小学生じゃないんだけどね!? その言い方やめてくれないかな! その目も!!」

麦茶の入ったグラスを片手に、羽衣は蔑むような眼差しを向けてくる。真理は反論した。

ここは羽衣の自室。真理は、いつも座る椅子に、羽衣は勉強机の傍らに置かれたキャスターつきの椅子に腰掛けている。

(余計な情報出したら勘付かれそうだしなぁ)

羽衣に精域の話は通じないだろうし、希羽の忠告を胸に話した結果である。ショタコン疑惑を受けるのは非常に不本意だが。

「なにやってんのか知らねえけど、俺を巻き込むなよ」

「ごめん。その子が羽衣に似てたから、つい」

「俺ん家親戚と縁ねぇから、拗れることはねぇだろうけどよ……親にはてきとーに言っとくわ。今度飯奢れよ?」

「うん。あ、ありがとう……」

財布を温めておかなければ……。真理は不安に手を震わせた。

「で。元凶のそいつはお願いに来ねぇわけ?」

「まぁ、色々理由がありまして。ご勘弁を」

「ほーん。別にいいけど」

「そういえばまた喧嘩したんだって? 誘ってくれたらよかったのに!!」

「いやしたくてしたんじゃねぇから! 誘うもなにもねぇんだよてめぇじゃあるめぇし!!」

「ちぇー……それで、今回はなんだったの? 目つきが気に入らないとか言われたの?」

真理は口を尖らせながら問う。

羽衣はその背丈と目つきの悪さ、加えて上から下まで真っ黒な服のせいかよくいちゃもんをつけられる。

スレンダーなため、男性と勘違いされるというのも原因だろう。

スルースキルが皆無な羽衣は、豪速直球の言葉を返すため瞬く間に喧嘩へと発展するのだ。

しかし、むこうから喧嘩をしかけてくるのは真理にとってはすごく羨ましいことである。

(私は長年の積み重ねでやっと挑まれるようになってきたところなのに!)

以前それを言った時。羽衣に駅の階段にぶちまけられた吐瀉物を見るような目をされたのを今でもよく覚えている。

羽衣は不愉快そうに眉を寄せた。

「めっちゃ意味わかんねぇいちゃもんだったわ」

「というと?」

「なんか中二病みてぇなこと言って襲いかかってきた。呪文とかあれ自分が考えてんのかね? 暇人かよ……」

ぶつくさ文句を言う羽衣。

(それはもしかして、黎瀬の民なのでは……?)

そう思ったが、口には出さないでおいた。

「それはまた、災難だったね」

「ほんとだわ。なんであっちからしかけてきたくせに俺が停学喰らわねぇといけねぇんだっての」

と、羽衣が麦茶を飲み干した時。

ポケットのスマホから連続のバイブレーションが起こった。

これは電話だ。羽衣に目配せして確認すると、そこには『白部実歌』の文字。いつもの調子で応答をタップする。

「実歌?」

『あ、お姉ちゃん! お母さんが帰りに買ってきて欲しい物メールしたって! 昨日買い物したんだけど、希羽兄の分足りないみたいでさー! 反応ないから一応電話でも伝えといてって言われたの』

硝子が砕け散る。

羽衣の持っていたグラスが、その手を離れたためだ。

スピーカーにしなくとも、実歌の大きく通る声は確実に漏れたのだろう。

スマホを確認しなかったことを、これほど後悔したことはあっただろうか。いや、妹からの電話だからと目の前で出てしまったのがいけなかった。

そう一人反省会を開く間もなく、羽衣が真理の手から音もなくスマホを引き抜いた。

「おい。希羽兄ってのは星名希羽のことか?」

実歌を相手に平静を装っているが、その実大きな感情を押し殺しているのが、親友をやってきた経験で分かる。

『そうだよ、羽衣姉の親戚の子でしょ? 初めて会ったけど、似てるよね! 喧嘩しちゃったんだって? 羽衣姉も大人気ないんだー!』

揶揄うような実歌の声に、羽衣は薄く開いた唇からフーッと息を吐いた。

「……うるせぇ。あいつはなに考えてっか分かんねぇんだよ。ぽけーっとしてるかと思いきやいきなり爆弾放り投げてくるような男だから気ぃつけな。……あと、言っとくがあいつは俺と同い年だわ」

『え?! じゃあ希羽兄って本当に19歳なの!? 私と同い年くらいにしか見えないんだけど!? 羽衣姉と身長差ありすぎじゃない?!』

「知らねぇよストレスなんじゃねーの? それと癒やし馬鹿だから余計小学生に見えんだろ」

『あ、それは分かる! 悠のこと可愛がってた時とか子どもっぽかったもん』

「あっそ」

『あー、その反応はまだ怒ってるんだ? 落ち着いたら会ってあげなよ?』

「……その気になればな。一生なる気ねぇけど」

『あははっ! 羽衣姉が拗ねてるー! じゃ、お姉ちゃんによろしくね!』

「おう」

ピッっという電子音を最後に、静寂が訪れる。

少ししてから、羽衣が口を開いた。

「……あいつに俺の話でも聞いて、口止めでもされたか?」

抑え込んでいたものが溢れたようなどす黒い声色。

なにも言えず沈黙する。

羽衣はそれを肯定と受け取ったのだろう。ギリッと、音が聞こえるような気がするほど、憎々しげに歯を噛み締めた。

「……お前も変なことに首突っ込むよな。なに言われたか知んねぇけどさっさと追い出せ。あいつは家族より人殺しを取る男だぞ」

「家族より……じゃあ希羽くんは」

「その名前を出すんじゃねぇ!!」

激昂になにも言えなくなる。ギラギラと怒りを宿した瞳は、真理を睨みつけた途端に揺らぐ。

「……この際だからはっきり言っておくわ。俺は『望月』羽衣だ! 俺の家族はここにいる両親だけだ。他にはもう誰もいねぇ!!」

羽衣は大きく息を吸って、ゆっくりと吐き出した。

「……口裏は合わせてやる。もう帰れ」

「う、うん」

「あいつの話は二度と出すなよ」

「……うん。ごめん。帰るね」

真理は素直に頭を下げて、部屋を出る。

「なんで……。俺ん中では、もうなかったことになってんだ。いまさら、蒸し返してくんじゃねぇよ……」

そう忌々しげに独り言つ羽衣の声を、扉を隔てて背に受けた。

頼まれた買い物を済ませて帰宅すると、希羽が出迎えてくれた。

真理の暗い顔を見て、申し訳なさそうに眉を下げた。

「電話、僕も途中から聞いた。……どうなったんだ?」

「うん。怒らせちゃったけど……口裏は合わせてくれるって言ってくれたよ」

その言葉に、希羽はほっと安堵した表情を浮かべた。

「よかった。……僕のせいで君達の関係が崩れるのは心苦しいからな」

「……希羽くんは」

あんなに嫌われて辛くないのだろうか。そう訊こうとしたが。彼の顔がぱっと明るくなり、しみじみとした笑みに変わったことで言い淀んだ。

「しかし実歌に八つ当たりしなかったのは感動したがね〜! あいつも大人になったんだなぁ」

先刻の羽衣の態度を思い出して、改めて激しい温度差を感じる。

希羽の言葉は本心だろう。しかし、真理には遠回しに気にするなと言われたように感じた。

日が落ちる前に、空き部屋は希羽の部屋へと様変わりした。

昨日真理の部屋に敷いた布団は、既に希羽の部屋へ運んである。

精域探しは真理の夏休みに入ってからにしようという話になり、明日の終業式はしっかり出ることになった。

(いつも思うけど、どうしてわざわざ連休明けの月曜日に終業式をやるんだろ。授業日数? 金曜日に済ませてほしいよー)

今真理は夕食を終えてひとり自室の椅子に腰掛けたところだ。

机にはノートとシャープペン。これまでのことをまとめておくためだ。

希羽から聞いたことや、気になっていることを黙々と書き出していく。

自然と今日の一幕が頭に流れた。

『あいつは家族より人殺しを取る男だぞ』

羽衣の言葉が蘇る。

(希羽くんは、復讐を果たすために羽衣を置いて行っちゃったのかな)

希羽と出会った夜を思い出す。

『村の外でもやっていたのは知っていたが』

希羽はあの村で被害にあったものだと思っていたが、あれは自分も村の外──精域の外で被害にあったから出た言葉じゃないだろうか。

羽衣が精霊の存在を幻としていることが、その考えを頑なにする理由だ。

精域に暮らす者が精霊を信じていないのはあり得ない。否が応でも未知を目にすることになるのだから。

希羽も元々は精域の外で暮らしていて、黎瀬の民である自覚はなかった。

しかし両親の仇を探していくうちに精霊の存在を身近にして、その自覚を得た。

そして今は、辿り着いた仇の村で暮らしている──と推測する。名字もその流れで星名姓を名乗っているのかもしれない。

置いていかれた羽衣は、精霊の存在を知ることなくそのまま養父母のもとで暮らしているということだろう。

(演技だったんだろうけど、電話で話した希羽くんのことは、本当に近い存在って感じだったなぁ)

加えて希羽の羽衣のことを話す時の嬉しそうな顔。ふたりは本来とても仲がよかったのだと思う。

両親を殺され、ふたりきりになってしまった兄妹。

それにも関わらず、希羽は羽衣よりも復讐を選んだ。それが、羽衣の希羽への気持ちを逆落としさせたのだろうか。

『俺は『望月』羽衣だ! 俺の家族はここにいる両親だけだ。他にはもう誰もいねぇ!!』

羽衣は希羽がいなくなったそれまでのことを、なかったことにしてしまいたいのかもしれない。

それを突然蒸し返されたのだ。怒るのは必然だろう。

(復讐より、一緒にいたかったんだろうな)

自分だってそうだ。

捕まえたいとは思っているが、なによりも今こここにいる家族と共にいるのが一番の幸せだ。

ましてや羽衣のような生き残りがいたのなら、絶対に置いて行きはしないだろう。

ふと、亡くなった弟の玲季(れいき)を思い出す。当時1歳だった彼は、今生きていれば14歳だ。

(もし玲季くんが生きてたら、絶対一緒にいる気がする。むしろ離れたがっても離さないかな!!)

玲季が大きくなっていたらさぞかし美人になったんだろうなと確信を持って言える。断言できる。それくらいかわいかったのだ。

興奮する頭をブンブンと振って冷ます。

ここまで考えたものの、復讐を完全に否定する気にもなれないのは事実だった。

(……どうしたらいいんだろうね)

希羽の復讐を止める術を、真理は見つけられずにいた。

2020.10.13 初出